「日本国憲法はアメリカから押し付けられた憲法である。だから、改憲をしなくてはならない。」
この主張を聞いて、皆さんはどう感じるかな🤔。
同感❗️
と思う人は結構多いんじゃないかな😅。
この主張にはあえて省略した部分があるのよ👋😄。
それは、主語よ☝️😄。
押し付けられたのは誰かしら😁
改憲しなくてはいけないのは誰かしら😎
えっ❗️❓
当然「日本」が押し付けられたんじゃないの。「日本」が改憲しなくてはいけないんじゃないの。
そう☝️😄
「日本」が押し付けられたというのは、ある意味間違ってはいないんだけれど、正確ではないの😅。
マッカーサーは日本政府に
「私たちが作った憲法を取るか、憲法の体裁だけ整えた日本政府の憲法を取るか、日本国民の投票で決めても良いんだぜ。」
って言っているのよね😔。
アメリカの議会の議事録に載っているんだって。アメリカ側の記録だからアメリカに都合よく書かれている可能性だってあるが、私はこれは事実だと考えている🤔。
少なくとも、この日本国憲法が公布された当時の日本人は、この憲法を歓迎したことは事実である。この日本国憲法下で、戦後の復興を果たし、経済大国までにのしあがったのも事実である。
この事実から推測すると、当時のアメリカ政府、特にマッカーサーは、この日本国憲法に自信があった可能性は大いにある。
日本国憲法の前文を読めば分かるわよ。当時の最新の欧米の民主主義の理念や哲学がてんこ盛りだから😎。
この「どっちの憲法を日本国民は取るんでしょうね(笑)」と言って、アメリカが日本国憲法を押し付けた相手は、日本国民じゃない。当時の日本政府だ。日本国民を脅したのではなく、日本政府を脅したのよ。
だから、日本国民は日本国憲法を押し付けられていないのよ。この考えに反対の人もいるだろう。
反対の人がいても良い。
でも、私は、そう考えるのよ🤔。
私のように考えると、安倍さんが蛇蝎のように日本国憲法を嫌うのも理解できるわよね😅。
私は「美しい国日本にする」とか、「子どもが誇りを持てる国にする」というような、宝箱のような言葉を信用しない。
「美しい国」「誇りを持てる国」
この言葉は宝箱よ。とても美しい箱なのよ。
宝箱を開けて、宝物が入っていれば良いが、空っぽかもしれない。いや、空っぽならまだ良いが、糞尿が入っているかもしれないわ。
「美しい国」や「子どもが誇りを持てる国」となると彼が言う、その宝箱の中身の一例を挙げようかしら😎。
5年ほど前に出された自民党の改憲案を読めば良いわよ。
日本国憲法第13条の「公共の福祉に反しない限り、国民の権利は最大の尊重を必要とする」とある。この「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えるのが、改憲案ね。
「な~んだ、言葉を変えるだけじゃん。」と思った方。
「私にはそんな難しいことは分からないわ」と思った方。
ゆう総帥に言われちゃうわよ😎。
「そんなことを思う人は、国民として既に形骸である。敢えて言おう、カスであると!!」
(機動戦士ガンダム・ギレン総帥の演説を参照のこと)
①歩きながらスマホでブログを書くのは、書いている人にとって危険である。だから、歩きスマホは禁止する。
②他に歩いている人にとって危険だから禁止する。
どちらも、個人が安全に生活するという個人の幸福を追求するために「ブログを書く自由」を制限したのである。これは公共の福祉にかなっている。公共の福祉って、ざっくりと簡単に言うと「みんなの幸福」と言い換えられるのよ😄
しかし、「公益に反しない限り」となると、これも許される。
③ブログを書くのは、国家のためにならない。だから、禁止する。
「考えすぎよ。」と言うのなら、言葉を変えず、「公共の福祉」のままにすれば良い。言葉を「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」に変えるのなら、変える意図があるのだろう。
分かるかなぁ~😣。
この怖さが…😱。
私には、幽霊の話よりも∞倍怖い話だ😱。
そんな怖い話はこちら👋😅。
霊体験の話はこちら👋😌
この「公益に反しない限り、基本的人権を尊重する」となったら、憲法自体が戦前の「治安維持法」に化ける可能性があるのよ😱。
治安維持の美名のもと、思想弾圧が行われた。私も危ないかもしれない😱。
そして、今の自民党は、戦前の政府を引き継いでいることも忘れてはならないわよ😎。
安倍さんは、安倍さんの父方のお祖父様を嫌い、母方のお祖父様を尊敬していることも、忘れてはならないわね。
安倍寛さんをご存じですか。安倍晋三さんのお祖父様です。立派な人です。
十五年戦争がはじまっても非戦・平和主義の立場をつらぬき、1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し[9]、1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、大政翼賛会の推薦を受けずに出馬するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした[9]。議員在職中は三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した[5]。戦後、日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死した[5][9]
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