国家論~私達は哲学から多大な影響を受けている😄~
凄いなぁ🤔
常識を覆すには「哲学」なのか。
国家にはなぜ支配者がいるのか。
古代から中世であれば、神が王に支配する権力を与えたということになる。王が神に選ばれし者だから、王に逆らうことは神に逆らうことになり、極刑となっても文句は言えない。
しかし、キリスト教圏では、プロテスタントとカトリックが、利権の奪い合いなども絡んで凄惨で醜悪な殺し合いをしてしまった。これじゃぁ、神の権威が地に落ちてしまう。「神が選んだのだから、王に従え」という理屈が効かなくなった。
そこで登場したのがホッブズという哲学者だ。彼は、「国家がないと人は殺し合う」と説く。殺し合わないためのシステムが国家なのだと。絶対的な権力を持つ支配者は人間が殺し合わないために作り上げたものだから、その支配者に従うのだと言うのだ。
「国家とは、神の作ったものではなく、人間が共存するために作ったものだ」と定義した。
いや~、痺れるね~😆。
「国家は神が作ったものだ」という常識を、「国家は人が作ったものだと」という新しい常識に変えた。さらには「支配者である王は、神に由来するものではなく、人に由来するものだ」とした。
いや~、ビックリ😱。
王権神授説が王権人授説になった瞬間かしら😄
(「王権人授説」なんていう言葉はないからね😅)
これって、とても大きいことよね🤔。
西洋は千年近く「キリスト教」という宗教に支配されていた。中世とは宗教が支配する世界。それが近世になると理性が支配する世界となる。
哲学と宗教のバトルって面白いのよ。
哲学は人。宗教は神。
哲学は論理。宗教は信仰。
近世から近代、そして現代は、理性が感情を凌駕した時代だとも言える。
次に出てくるルソーはさらに凄いわよ😁。
国家のない自然な状態であると、人間は争い殺し合うなんて考えるのはおかしい。自然な状態であれば、人間はお互いに助け合って生きていく。国家なんてなくても人間は生きていけるんだと説く。
おぉ~😄。
神が作ったとされた国家が、ホッブズで人工物になった。しかし「国家はなくてはならないものである」ことは、王権神授説の頃と同じよ。それがルソーにいたると「人工物の国家なんてなくても良いんじゃね。」となる。
すげ~😎。
さらに凄いのは、「なくてもよい国家なのだから、自分に都合がよければ従い、都合のよくない国家なら取り替えてもよい」となる。
うぉ~😆。革命の理論ね。
革命とは体制が変わること。例えば、王制から共和制に変わることね。
「国家」が「主」で、「国民」が「従」であったものが、「国民」が「主」で「国家」が「従」という、大転換が起きたのよ。ここに国民主権という思想が生れた。
日本には真の意味での革命がない。
古代は朝廷(天皇)が治めていた。
中世から近世は幕府(武士)が治めていた。しかし、武士が治める根拠となったのが天皇が武士に政治を任せたってことなのよ。
そして近代。明治維新は「王政復古」なのよね。だから、真の意味での革命ではないんじゃないかなぁ🤔
現代。天皇主権から国民主権となった。でもこの国民主権は、日本国民が自らの手で勝ち取ったものではなく、アメリカに指導されて与えられたものである。
国民主権ってとても尊いものなのよ。人口の数%の一部の特権階級が、大多数の国民を支配する。その特権階級は働かず贅沢三昧の生活をして、大多数の国民が貧しく辛い思いをするというシステムを変えたのが「国民主権」なのよ。
これを理解しているのかしら。日本国民は真の意味で理解していない。なぜなら、日本はそのような歴史を背負っていないから。その国の歴史を知るって、その国の国民のアイデンティティーを知ることにもなる。
いや、私も真の意味での理解していない。でも、知ろうと努力はしている😔。あの慶應大学の教授のように、「選挙権を返上した方が良い」なんていう「国民主権」に無理解な人にはならないように心がけている。そんな「国民主権」に無理解な大学教授のお話が載っているブログはこちら👋😄