つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

宗教戦争の原因を考える🤔~信じる宗教が違うだけで戦争になるものかしら~

まずね。「神様って何だろう」って考えてみた🤔。

 

神様は人智の及ばないことをする存在ってことよね。日照り、雷の衝撃、大雨、洪水、嵐等々。火山の噴火などもそうよね🙄。

 

しかし、人類は観察や実験を通して、神の行いだというものを暴いていった。暴くというか、未知のものを知りたい、言い換えれば、神を知りたいという知的好奇心が旺盛で、探求していったと言うことだろう🤔。

 

どんなに探求しても、人智ではたどり着かないものがある。人智を越えたことをすることが神ならば、敵と争っても、神の力があれば勝てるという考えにいたるのも当然だろう。

 

いわゆる宗教戦争が信条の違いから起きるということに疑問なのは、この点にある☝️😔。信条の違いではなく、宗教は戦いに勝つ手段やきっかけじゃないかと🤔。

 

多神教であれば、宗教戦争が起こるのは良く分かる。

「おいらの神様の方がお前の神様よりも強いんだじょ~」

とか、

「こっちの神は甘いぞ、そっちの神は辛いぞ」

のようなことが起きるのも理解できるのよ😅。

 

でも、一神教の宗教戦争が、その信条の違いから生まれるというのが、どうも分からないのよ🤷‍♂️。

 

たしかに、一神教は排他的である。排他的だからこそ強い。他を認めないんだから。

 

でもね、神学を学んでいないど素人の私にはそこがよく分からないの😔。信者の方々ごめんなさい🙇‍♂️

 

一神教は、この世を全知全能の造物主が作ったとする。その全知全能の造物主が、様々な考えを持つ人を作ったのだから、様々な考えわ持ち、他の宗教を信じる人がいても良いんじゃないかしら🙄。

 

十戒には「わたしのほかに神があってはならない。」とある。神が人を作ったのに、なんでこんなことを命じなくてはならないのかしら🤔。

 

そういえば、 昔、こんなことをブログに書いたわ👋

「3つの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)とも神の啓示に立脚して生まれた宗教」と理解するのが正しいようだけれど、「神の啓示に立脚した」って、それこそそれを信じるか信じないかの問題で、それを事実とする根拠が分からない。まぁ、素人だから分からないのだろうけれど🤷‍♂️。「神の啓示を受けたという預言者の発言に立脚した」なら分かるわ。

 

私が書いていることは、信者や神学からしたら間違いだらけなのだろう。またはもっと宗教のことを知ってから発言しなさいと言われるかもしれない。また、信者を侮辱していると怒られるかもしれない。

 

しかし私はこう考える🤔。

 

宗教ってもっとフラットに語り合えるものじゃないといけないと思うのよ。「もっと知ってから語れ」とは、「知らないなら語るな」となり、宗教を語るのがタブーとなってしまう。これではいけない。聞きかじったことを疑問に思うということは侮辱しているわけではない。

 

神が神聖なものならば、その神聖なものを、たとえ精霊が宿ったとしても、人間が会議で決めちゃダメだと思うのよ。聖職者の会議で、キリストが神か人か、神は一人とすると神の子とは何なのかを会議で決めるなんて。三位一体説なんて、信者ではない素人からしたら、ビックリよ。神聖な神を論争するなんて。

 

でも、神について様々解釈があり、それについて論争するという下地があって近代の発展があり、民主主義にも繋がるようにも思うのよ🙄。

 

話が大幅にずれた🙇‍♂️。

宗教戦争の話ね。

 

一神教の立場で考えると、この世界を作ったものが全知全能の神聖なる造物主ならば、この世に起きていること全てを受け入れるという考えになっても良い気がするのよ。だってそれが神の思し召しだもの。

 

でも、そうではなく争いが起き、布教もする。そして、神の啓示を受けたという予言者も現れる。その予言(神から預かった言葉)を信じなければならない。その言葉が本当に神の言葉かどうか疑問を持つのは不敬であるとなる。そうなると、神ではなく人に権威が生まれる。

 

神は、平等に人を作ったとする。しかし、組織化すると立派な建物ができ、階級も作られる。

 

「教皇、大司教、司教、司祭、助祭」という階層を、神は認めているのかしら。少なくともイエスはそういった階層を認めたのかしら🙄。認めていないだろう🤔

 

これらの階層を神は認めていない。イエスも認めていない。イエスの死後、作られたものだ。

 

キリスト教はイエスの復活を信じる宗教だ。イエスは十字架に磔刑された後、復活したという。その後、イエスの言葉を伝えたのがイエスの12人の弟子である、十二使徒。ヨハネ以外は殉教したと言われる。

 

イエスが処刑される時には、ヨハネ以外の使徒は情けない行動をしている。イエスが夜中に祈っていても、みんな寝てしまう。イエスはペテロに「鶏が鳴くまでにあなたはわたしのことを三度知らないと言う」と言った。その時ペテロは否定したが、イエスと共に連行されることを恐れたペテロはイエスの予言通り、イエスを三度否定する😱。

 

しかし、磔刑後イエスが復活し昇天したあと、彼らは別人となった。死を恐れない勇敢な伝道者となって、ヨハネ以外の使徒が無残に死んだ。

 

これをどう解釈するか🙄。

 

彼らの変貌がイエスの復活を物語っているとも言えるかもしれない。イエスを見捨てて死なせてしまった後悔と自責の念からの行為だったのかもしれない。

 

イエスも十二使徒も当時のユダヤ教の堕落を改革しているということで、キリスト教を始めようとは思っていなかっただろう。少なくとも、イエスはキリスト教の開祖という認識はなかったはずだ。

 

こう考えると、父なる神や子なるキリストの思惑と異なるところで、宗教としての組織化や争いがあるんじゃないかと私は思うのよ😔。

 

宗教としての組織化も戦争も、その神を信じるか否かとは別次元のものではないかと私は考える。

 

どんなに良い教えであっても、組織化しないと広まらないし、残らないものだそうだ。

 

日本人に身近な良い例が、鎌倉新仏教だ。今じゃ全国区の浄土真宗は、開祖の親鸞以後は長い間廃れたのよ。

 

親鸞の死後約200年に登場した本願寺八世の蓮如は、組織化と布教の天才だった。講という組織を作り、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供した。教えを分かりやすい言葉で書いて読ませた。

 

組織化も争いも、神ではなく人がすることである。

 

人は欲によって動く。物欲、支配欲、性欲、食欲・・・。宗教戦争は、信条が異なることが主たる原因ではなく、政治的、経済的、外交的な要素が主要因ではないかという考えに至った🤔。

 

中東戦争だって、イギリスの三枚舌外交が生んだものだし。

 

フランスとは、オスマン帝国の領土である東アラブを分割する約束をし、ユダヤ人にはパレスチナに民族的郷土建設に賛同し、アラブ人とはアラブ独立国家の樹立を約束した。まぁ、矛盾した外交なのよ😨。

 

領土、石油などの利権、信条と言ったものが絡んで戦争となるわけで、信条(宗教)が違っただけでは戦争にはなかなかならない。

 

それは十字軍をみても分かる。

 

多神教でもそうよね🙄。

 

日本で言えば、飛鳥時代の物部氏と蘇我氏の崇仏論争から戦争になったが、政争よね。

 

織田信長の比叡山焼き討ちや石山本願寺との戦争も利権が絡んでいる。

 

そんなはなしがこちら👋

 

要は、宗教は心に平安をもたらすものであるが、それが争いになったら心(信条)の問題よりも人の欲の問題が大きいんじゃないかなぁって言いたかったのよね😄。

 

だって神自身が人の心だもの。宗教自体か人の心が作ったとものならば、宗教戦争も欲が絡むわ。信条に経済的な問題が絡んで、宗教戦争が起こると私は考える☝️😔。

 

あぁ、疲れた😁。やっと結論にいたった。

 

疲れて、ブログの更新がまた途切れるかもしれないわ😅。