つれづれなるままに

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宗教談義9~「神は死んだのか」🤔~

「神は死んだ」とニーチェは言う🙄。

では、なぜ神は死んだのか。ニーチェの哲学ではなく、神が死んだ原因を考えてみる🤔。

 

専門的な知識のない凡人の考えと思って読んでください🙇。信者でもなく専門的な知識のない者が、こういう理解の仕方をしているって公にすることに意義があるのよ😅。と、言い訳をしておこう。

 

それを考えるには「神」の定義が必要だろう。

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教で言えば「造物主」となるのだろうか🤔。

 

一神教を信じる者から言えば、「造物主という信仰を発見した」とか「考えた」と言うのは信仰を冒涜したことになるのかもしれないが、一神教を信じないものが歴史的に見ると、やはり「造物主信仰を考えた」ということになる🤔。信じる方々には申し訳ないが、「造物主信仰を考え付いた」ことを前提に話を進めていく。

 

造物主信仰を考え付く前は、世界は多神教の世界であった。

 

山の幸をもたらす者は、何なのだろうか。

 

洪水を起こし人々を苦しめるが肥沃な土を運んでくれる者は誰なのだろうか。

 

雷を鳴らす者は誰なのだろうか。

 

挙げていったらキリがないが、人が説明できない自然現象の原因を全て「神様がしたこと」としたはずよね🤔。

 

一神教を信仰しない私が神を定義するならば、神とは「人間が説明できないものの原因」だ😄。だって説明できないから、信じるんでしょ。

 

しかし、キリスト教は、信仰と論理を融合させようとして、様々な試みをした。その最たるものが三位一体説ね。信じることと論理は水と油。論理を追求するほど信じることとの矛盾が生まれる。

 

でもね。

キリスト教は信じない者から見た「現実と信仰の大いなる矛盾」を理屈で何とか乗り越えようとした。そして、ルネサンス期に信仰の大いなる敵、ソクラテスやアリストテレスと言ったキリスト教誕生以前の哲学が入ってきた。このバトルは面白い。

 

論理って「神への挑戦」だという。それは当たり前のことよ。

 

さっき私は、神を「人間が説明できないことの原因」と定義した。

 

論理は「『人が説明できないことの原因』への挑戦」と言い換えればしっくりくるわよね🤔。

 

色々書きたいことがあるが、ここはひとまずおいておくわね😅。

 

「山の幸は山の神様からの贈り物だ。洪水をもたらすのは、川の神様が泣いたからだ。雷が鳴るのは天の神様が怒ったからだ。」と昔から語り継がれている村があったとしよう☝️😄

 

それはその村社会の常識である。

 

他の村社会では

「山の幸は山の神様からの落とし物だ。洪水をもたらすのは、川の神様がお漏らしをしたからだ。雷は天の神様の頭痛だ。」と昔から語り継がれている村があるかもしれない😄

 

ある村とある村が行き来をするようになれば、常識と、その常識と異なる常識がぶつかり合うようになる。

 

そうなると、正しさや常識は1つではないことを知る。

 

そのとき、その村にとっては、その村の神が死んだのよ。

 

説明できないことの原因を、地域地域で神を作って説明していたけれど、それは、極端な言い方をすれば「嘘」だったことを知る🙄。

 

神を殺したのは、村と村との交流、言い換えれば交易だった。

 

交易とは、売買行為のこと。言い換えると、少しニュアンスは違うけれど、貿易ね。

 

交易は利害関係を生む。

だから戦争となる。

 

戦争の主な原因の1つは貿易なのよ。そのため戦後、世界貿易機構(WTO)が作られたと、ざっくりと理解しても良いんじゃないかしら🤔。

 

「神々が地域ごとに違って良い」「たくさんの神様がいても良い」という相対主義的な信仰の中に、「神は1つだ」という思想を発見した民族がいる。それがユダヤ人だ。

 

ユダヤ人は国がなくなり、エジプトで奴隷のごとく扱われたり、世界に四散したりした。そんな厳しい現状を受け入れるために、「私たちは唯一神に選ばれし民で、この厳しい現状は神が与えた試練である。いつか救世主が現れ、私たちを救ってくれる」と信じた。

 

これは多神教よりも強い。1つの神しか信じないという絶対主義的な思考は、排他的にもなり得る。

 

しかし、ユダヤ教はユダヤ人が信じる民族宗教である。ユダヤ人を救う神を信じる宗教である。だから、地域ごとに信じられている神であり常識である。

 

大枠からしたら、多神教の中の一神教って感じかしら🤔。あくまでも私の浅学な理解ね😅。

 

だってヨダヤ人がユダヤ教を信じるように強制したという話は聞いたことがない。あっても少ないはずよ。

 

いや、ヨシュアがいたか🤔。彼はラハブらを除くエリコの人民を老若男女問わず家畜も含めて全てを皆殺しにした。聖書の中にはそんな残忍な話もある。しかし、改宗を求めたものではない。

 

ユダヤ人のみを救う唯一神を信じているのだから。

 

それを排他的にしたのはキリスト教なのかしら🤔。

 

「造物主は、ユダヤ人だけでなく全人類を救う」と信じた。「ユダヤ人のみ」ではなく「全人類」としてしまった。相手に改宗を迫り、世界各地の神々を滅ぼしていってしまった。世界をキリスト教化しようとした。ベニスの商人という話は、その最たるものよ😱。

 

ユダヤ人は、当時差別され、当時は蔑まされていた職業にしか就けなかったのよ。現代人はそれを前提にしてあの作品を読まなければならない📖🤔。

 

金貸しシャイロックはユダヤ人に悪意ある描かれ方をされている。裁判中にはユダヤ教徒には耐え難い罵声を浴びせられた。その正当な権利を踏みにじられ、強制的に改宗させられている。

 

強要して改宗させることは、その人の心の死を意味する。

 

イエスは異教徒に改宗を強制することはなかったはず。隣人愛を説いたのだから。

 

旅人がエルサレムからエリコへ向かう旅の途中で強盗に襲われ、半殺しとなった。息も絶え絶え、道に転がされていた。

 

たまたま祭司が通りかかったが、無視して通り過ぎた。なぜなら司祭は死体や血に触れてはならないからだ。

 

下級の祭司(レビ人)も見て見ぬふりで通りすぎた。

 

三人目に通りかかったサマリア人(ユダヤ人だが異民族の血が入っていてユダヤ人に差別されていた)は倒れていた旅人を助けた。

 

イエスは「この三人のうち、強盗に襲われた人の隣人は誰か」とたずねた。

ユダヤ人である司祭やレビ人ではなく、当時ユダヤ人に差別されていたサマリア人であるとイエスはいう。

 

彼はユダヤ教内の改革者であったが、あまりにも理不尽な殺され方をした。

 

イエスがユダヤ教徒に捕まったとき、イエスの弟子たちは皆、逃げたという。イエスの前では「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと死であろうと、覚悟はできております」と言った弟子の筆頭格のぺテロもイエスを裏切った😱。イエスを敵対視する大司祭にイエスが捕まったとき、彼は「お前もイエスの仲間だ」と言われ、三度も「イエスのことは知らない」と言った。そしてイエスは十字架に磔刑となった。

 

そんな惨めに殺されたイエス。そのイエスは本当にキリスト(救世主)だったと、人が変わったように信じ、殉教したのが、イエスの12人の弟子たちである。ぺテロもその1人。

 

これまで弱く信仰も中途半端であった彼らが、「イエス様はキリストだった」と叫び続け、彼らも殉教した。何が彼らを変えたのか。

 

復活したイエスを見たからか。

それとも師であるイエスを裏切った罪悪感と贖罪の気持ちからか。

それは分からない。

神は人それぞれの心に宿る。彼らの心にはイエスが宿ったのだろうか🤔。

 

近世の扉を開けたのは、ルネサンス。その後、キリスト教は、世界を席巻した。キリスト教徒は神への探究心から、科学を産み出した。またユダヤ教徒も科学を発展させた。

 

自然科学

社会科学

物理科学

神の教えとされる聖書との食い違いがたくさん出てきた。

 

マルクスという神を否定する思想を打ち立てる者も出てきた。

ダーウィンの「種の起源」「進化論」なんて凄いよね😱。

 

人間は神が作ったものではなく、猿が進化したと説いたのだから、キリスト教圏の人々は驚愕しただろう。

 

哲学は論理から、科学は客観的事実や実験から、次々に神の領域を侵しているともとらえられる。

 

神とは「人が分からないことの原因」とするならば、人が何から何まで分かろうとする行為は神への攻撃であり挑戦なのかもしれない。だから、神はアダムとエバに知恵の実を食べさせたくなかったのか🤔

 

これまでの宗教談義はこちら👋😄