つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

宗教談義3

たまに死について考えてしまうことがある。父は63才で亡くなった。その父の年齢までは16年。あぁ、何と短いことよ。

 

死ぬ間際、悔いがない人生だったと思えるだろうか。いや、満足できる人生だったと思えるだろうか。

 

悔いがない人生を送ることができた人ってそんなに多くいるのだろうか。凡人は皆、悔いを残しながら、それでも満足したと思い込んで死にいくのかもしれない。いや、満足せずに死にいく人の方が多いのかもしれない。

 

私の人生に意味を見いだすとしたら、チューを育てたことで知ることができた。社会からすれば、そして、ある国会議員からすれば、チューは社会のお荷物で生産性のない奴かもしれない。しかし、そういう奴が「申し訳ない」と思って生きる社会が本当に幸せな社会と言えるのだろうか。彼と出会わなければ、私はそういう考えに心の底から納得出来なかったかもしれない。彼と出会えたおかげで、私の知らなかった世界を知ることができた。みんな業を背負いながら生きていることも知った。それでも、明るく幸せに生活している人がいることも知った。

 

では、私の人生の意味は❓。それは、生きること。生きていれば、どうしても社会と関わる。その社会との関わりに意味がある。社会に世話になることにも、意味があるんだよ。きっと。

 

ほら、スペシャルオリンピックスで指導してくださるお姉さんは輝いているじゃないか。ほら、キミがいることで、パパがうれしい気持ちになるじゃないか。ほら、キミの周りにはたくさんの友達が集まってくるじゃないか。キミが生きようとすれば、そこに意味があるんだよ。だから、私も生きようとすれば、そこにきっと意味があるはずなんだよ。その意味は、世界を動かすほどのものでなくても良いんだ。生きようと努力することが尊いんだ。

 

病気になって苦しんでいて、それでも生きようと努力する人は尊い存在だが、痛くて苦しくて辛くて生きることに意味が見いだせなくなった人に「生きること自体に意味があり、尊いものだから生きろ」とは私は言えない。私が認知症になって、自分が誰かも分からなくなって、それでも私がいきる価値があるのだろうか。こういう疑問を持つことも理解できる。

 

安楽死。難しい問題だ。

 

安楽死を認めると、苦しくても生きようとする人に辛い視線を送る人が生まれるから、安楽死を認めない」という考えの人もいる。いや、それは安楽死が悪いのではなく、生きようとする人に無理解な人が悪いのではなかろうか。

 

安楽死を認めると安易に安楽死をする人や安楽死をさせる人が出る可能性があるから、安楽死を認めない。」と言う人もいる。でも、それは、安易に安楽死を選んだり選ばせたりする人が悪いのではなかろうか。いや、「安易」の定義は何だろうか。私は分からない。

 

人は様々な権利を勝ち取っていった。生きる権利も勝ち取った。であるなら、なぜ「死ぬ権利」は、こうも忌避されるのか。「死ぬ権利」の行使を安易に認めてはいけないということは、分かる。人間以外の生き物全て、自分で死のうとしない。死ぬまで生きようとする。それが自然だからだ。「死ぬ権利」は自然である状態に反するから、これだけ忌避されるのだろう。

 

自分の生まれてきた意味を問うということは、神(造物主)を問うということに繋がる。「貴方がこの世に生まれたのは、神の思し召しなのだ」と考えることは、脳が発達し複雑な感情を持ち、社会生活を送る人間には必要なことなのだろう。

 

ユダヤ人は迫害された民であった。迫害された彼らには、この世に生まれ生きる意味が他の者たちより以上に必要だったはずだ。それが神の思し召しであり、いつかメシアが現れて、私たちを救ってくれるという信仰になったのかもしれない。だから、神なんていないというのは、自分が存在する意味も希薄になってしまうのだろう。人は誰でも生まれた意味を問う。だから、共産主義となっても宗教はなくならなかったのだろう。

 

私は神を信じる。神とは私の心の中にあるものだ。私の心が私に「生きること自体に意味があるんだ」と囁いた。その囁きのきっかけはチューを育てたことである。ということは、チューが私にとっての神なのであろうか。でも、彼は私を造ったわけではない。私の造物主ではないはずだ。それはならば、誰かが私にチューを送り込んだ者がいるはずだ。それは妻であろうか。私であろうか。いや、神なのかもしれない。


宗教談義その2~聖書の話~ - つれづれなるままに