お墓は誰のためにあるの❓️🤔
お墓って誰のためにあるのだろうか❓️🤔。毎週月曜日に父の墓参りをしている私は、こんな疑問が生じた。
今日は、朝7時30分に中2のチューと車でゴミ出しをした。
その後、近くのコンビニに行き、チューが買い物をする。200円程度の買い物よ😅。アイスを買ったり、団子を買ったり、ジュースを買ったりする。
前にも書いたけれど、課題のあるチューに1人で買い物をする練習を兼ねている。
その後、チューは学校に行った。妻はパートに行った。
月イチの診療所に行く日だった。
母に「診療所に行くついでにお墓を見てくるよ。」と言った。
私の墓参りは大抵「~のついで」にしている。
チューとの散歩のついで。
チューをデイ・ケアに送迎するついで。
診療所に行くついで。
そして、そのついでに母の買い物をする😄。
飲料水
お茶
お米
お菓子
アイス
など。
飲料水やお米は母には重たいだろうということで、私が買ってくる。私から「買ってくるよ」と母に言う。
さて、お墓は誰のためにあるのか。
少なくとも私は毎週何のために父のお墓に行って、生花を供えてくるのかだろうか。
お墓は死者のためにあるのではない。お墓は生者のためにあると私は思うのよ😔。
お墓参りは、死者を弔うためではない。お墓参りは、生者の気持ちを安らげるためにするのだろう。
いや、「弔う」とは 死者の霊を慰めるためするのではなく、生者の気持ちを慰めるためのものであろう。
死ぬ直前まで「悔しさ」「苦しさ」「痛み」と言った感情があるだろう。しかし、死ねばそういった感覚から解放されるはずだ。死ぬという経験をしたことがないから、分からないが。
死者に喜びと悲しみも怒りもない。存在が人の心に残るのだ。「死んだ者が残っている心」を慰めるために葬式もお墓も法要もあるのだろう🤔。
父を失った悲しみは、今はない。いや、心の奥底にはあるだろうが、父の死の悲しみを今はあまり認識していない。それでも私が父の墓参りをするのは、母が喜ぶからだろう。
父が亡くなり十三回忌を過ぎたが、母は父の話をよくする。良いことも悪いことも笑って父の話をする。その話を私はきく。
父の墓に行くと言うと、母の表情がとても柔らかくなる。普段が固いと言うわけではないが。
お墓にお供えする生花代は母が出している。毎週千円だ。
母は「お父さんが生きていたらお酒を飲むでしょ。お酒の代わりに毎週生花を備えていると思ったら安すぎるわよ。」と言う。今は全く心配もなく暮らせるのは父のおかげという。仏壇はいつも綺麗だ。
年老いた母は出不精になった。あまり外出しない。腰が重くなった。だから、私がお墓に行くと言うと、お墓が気になっている母は喜ぶ。
さて、私は母亡き後、お墓に足繁く通うだろうか。こんなに足繁く通わないと思う。それは母のように喜ぶ人がいないから。
あぁ、「お前がいるからお母さんは大丈夫だろう」と、死の1週間前に、助手席に乗っている父に言われた言葉がまたよみがえる。
あぁ、私も亡き父を弔っている。この言葉があってもなくても私の母への態度や接し方に変わりはないと思う。しかし、父が安心しているであろうと思う。
故人の気持ちに沿って生きるのは、生きている者の気持ちに沿っていることが前提であろう。
故人の気持ちに縛られているのではない。故人の気持ちと生きている私の気持ちが合致しているのだ。