暴行現場に居合わせたら、あなたはどうしますか。
今日のブログはあまり共感を得られないだろうなぁ🤔。私も迷っているのだから…。
でも、思ったことや感じたこと、考えたことを、なるべく正直に書くことを信条にしたブログだから、書くわね。
「今回の事件には、居合わせた皆が介入するべきでしたし、誰かが何かをしなければいけなかったと思います。この女性を助けるために何もしなかった人たちには、呆れるばかりです」というティモシー・ベルンハルト警察署長のコメントを、The New York Timesは伝えている。
私の次の言葉に違和感がある人はいるだろうか。
「暴行されている女性を助けた人は、賞賛されるのは当然だろう。その勇気に敬服する。」
この言葉に違和感を持つならば、女性を助けなかったことを呆れても良い。
しかし、この言葉に違和感を持たない人が、女性を助けなかったことを呆れるのは矛盾していると私は考える。
なぜか。
電車内で乱暴されている女性を助けるという行為は、賞賛される行為なんでしょ。
賞賛とは褒め称えるということよ☝️😔。
褒め称えるだけの価値がある行為なのよね。当たり前の行為じゃないから褒め称えるのよ。
褒め称えられるのは、女性を助けるという勇気よね🙄。勇気がなくては、暴行を受けている女性を助けることは出来ない。
周りから賞賛される当たり前ではない勇気を全ての人に求められるのだろうか。
いや、当たり前の行為ではないのだから、全ての人に求められないものだろう。
賞賛される行為をしなかったからと言って、呆れても蔑視するのは矛盾しているじゃないかしら。
誰もがしなくてはならないことをしない人に対して呆れるんじゃないかと思うのよ🙄。
この警察署長は、暴行犯を取り押さえた市民に感謝状は贈らないのかしら。取り押さえないことを呆れるんだから、理屈の上では取り押さえても当然と思うわよね。
助けないと呆れて、助けたら感謝状を贈るのは、心に大きな矛盾を抱えていると私は思う。
「感謝する行為をしろ」と強制しているんだから、この思考の方が私は怖い。
なんかうまく説明できない😣。
つまり、「暴行犯を取り押さえることなんて、一市民にはハードルが高尾山くらい高い」ということよ。
自分が被害にあったら、助けてほしい。助けてほしいのなら、人が被害にあっているときに助けるべきだ。この理屈は正しい😔。
私は電車内で暴行受けている女性を助けるだろうか😣。
助けるという行為には勇気がいる。
電車内で女性を暴行する奴は、アタマのおかしい奴だといってもよいだろう。凶器を持っているかもしれない。腕っぷしが強いかもしれない。周りに凶悪な仲間がいるかもしれない。そういうことを想定すると、保身に走るのは人間の性だ。この警察署長は人間の性に対して呆れたと言えよう。
だって考えてみてよ😥。
学校で虐めにあって自殺しても、教師も級友も「虐めはなかった」とするじゃないか。
公文書を改竄することを強要されて自殺した役人がいても、もう過去の事として再調査をしないじゃないか。
暴力団にラチられた大学生が車内に監禁されている可能性を知りながら見殺しにしたのは警察官だったじゃないか。
挙げていったらキリがない。それらを追及しようとしたら、「もう終わったことを今更、もっとやるべきことがあるだろう」としたり顔でいう人がいるのよ。
こういう例がたくさんあるのに、女性が乱暴されている車内に居合わせた人が女性を助けなかったと言って呆れられるのは、理不尽なようにも思ったのよ😣。
それに、これとそれとには大きな違いがある。私が挙げた学校の虐めも役人の自殺にしても見殺しにされた大学生にしても、どれも助けるべき人、究明すべき人が、その役目を果たしていない。
学校の先生、政治家、警察官、どれも保身に走っているじゃないか。彼らが保身に走るから、私も保身に走って助けなくても良いとは言えないことは分かっている。
でも、助ける義務のない一市民が助けなかったからといって非難される謂れはないように思ったのよね。
それにアメリカじゃ、暴行犯がピストルを持っている可能性があるわね😣。
私がその電車に乗り合わせたら、その女性を助けたい。しかし脳裏には妻や子や母の顔が浮かぶ。その守らなくてはならない者を省みず、見知らぬ女性を助けられるだろうか😣。
助けられないよ❗️❗️😣
そう❗️
自分には出来ないことをした人を賞賛するのよ。そして敬服するのよ。私はそういう狂人に立ち向かう人を賞賛し、敬服する。そして、自分は賞賛され敬服される人になれない弱虫な小人よ😣。
助けなかった人を呆れたのは警察署長だ。貴方が職務中なら、そういう被害者を助けて当然だろう。それが使命なんだから。その使命を一般の人に求め、それが出来ないと蔑む性根が気に入らない。
「居合わせた皆が介入するべきでした」というけれど、その場に偶然居合わせた人たちが一致団結して暴行犯に立ち向かえないだろう。それに暴行犯に最初に立ち向かった人は殺されることだってある。
三國志の英雄である張飛は1人で、長坂橋で主君の宿敵曹操軍百万と対峙したと言われる。
誇張もあるが、これを荒唐無稽と言うことはできない。
百万人で一気に攻撃できれば張飛は死ぬが、最初に張飛を攻撃した兵士は確実に殺されるだろう。
張飛は一騎で1万人を相手に戦える豪傑と言われた。味方が大勢いたとしたも、一番槍を突くのは至難の技だ。誰も死にたくも怪我をしたくもないんだよ。
暴走族の喧嘩で、1人で千人を相手にしたなんて話も聞く。宇梶剛士さんだったかしら?🤔
一致団結するなんてとても難しいことよ。飛躍だが、SNSをやっているとよく分かる。自分にとって良いことが、他人にとっては全く共感できないってことがあるでしょう。
平時でも意見の一致や共感が難しいのに、緊急時だったら、尚更難しくなるわ。
昔、始発駅の終電に乗って帰る途中、車内で喧嘩しているオヤジと学生を見かけた。酔っぱらっているオヤジが学生に絡んでいる。学生はひ弱そうだ。2~3駅ずっと学生を絡んでいる。周りはオヤジを注意しない。
若かりし私はオヤジを注意してしまった😣。
そしたらオヤジは私に絡んできた。学生はその隙に下車してしまった😱。次の駅で駅員が入り、周りもとりなしてくれて、私に非がないことになったが、この経験から、金輪際、自分が他人のトラブルを直接解決しようとは思わなくなった😥。
そういえば、混浴温泉で溺れた女性を助けた旅館の従業員が、誤って逆に温泉に溺れて死んでしまったという事故を思い出した。その女性は男性と温泉に入っていたが、2人とも逃げてしまった。
他にもこんな痛ましい事故がある。
「夫が目の前で溺れている子供を見て、でも勇気が出なくて飛び込まなかったら、夫は心にトラウマを持つことになったかもしれません。でも私はね、飛び込まないでほしかった。」
近所のどこかで取材したのだろう。「子煩悩で、子供をよく肩車していた」とか「近所の子供を集めて遊んでいた」とかいう文字が目に入った。「肩こりで肩が痛くて、肩車なんてできなかったよな。」記事と実際との乖離が全然飲み込めなかった。そのほかにもいろいろと書かれていたけれども、それ以降、記事には目を通していない。
「これって美談なの?」冗談じゃない。私たちにとって大事な大事な夫でありお父さんが、突然いなくなったんだよ。他人から見れば、子供を救助しようとして命を捧げた人かもしれないけれども、家族からしてみれば「なんで、そんなことをしたの。」
車内で襲われている女性を目の前にして、その女性を助けなかった人たちを私は責められない。
その女性が私の身内だったら、私は助けなかった周りの人を責めただろうか。
何で助けてくれないんだと責めるだろう。
じゃぁ、自分は助けるかというと、助けることはできなかっただろう。
と、他人を助けるとか、助けないという行為の評価はとても難しく、一概には言えないものだと私は思う。
「絶対助ける」という信条を持つ人に対しては、私は賞賛するだろう。
私がK−1チャンピオンだったら、助けるかもしれないが、相手が凶器を持っているかもしれない。
でも、世間体を気にして助けるかも。いや、世間体を気にしている時点で、K−1チャンピオンになんてなれないだろう。