つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

私とあなたと他人と~死んで苦しむのは誰?~

先日、科捜研の男性の自死に関する記事を読んだ。

 

東日本大震災で多数の方々が亡くなった。それも身元が分からな死者が多かった。そのため検死が必要となり、科捜研は過度な業務に追われた。181日間連続勤務、亡くなるまでの6カ月間の時間外勤務は月平均290時間だったそうだ。それに加えて、USBの紛失の犯人にされてしまった。

 

遺書には「USBメモリーを抜いたのは私ではありません 命をかけますので信じて下さい」と書かれていた。

 

彼には2人の子どもがいた。1人は高校3年生で、もう1人は中2だった。父の自死が原因で家に引きこもるようになったそうだ。兄は大学に受かったが、大学に行かなかった。しかし、母親は、いつかは大学に行くだろうと授業料を払い続けた。その2人は28才と24才になり、いまだに家に引きこもっている。過労死が認められるのに4年もかかった。

 

この記事を読んで、痛ましさややるせなさという感情が浮かんできたが、自死について冷静に考えている自分もいた。人の死に対して、そしてその死に苦しむ家族に対して、客観的な私がいるということも、このブログを書いた動機である。

 

死ぬということは、自分の存在がなくなるということだ。死んだ者は、死ぬまでは苦しかっただろうが、死んだ後は苦しみはないだろう。

 

宗教上は「死んだあとも苦しむ」とか「死んだあと救われる」と言われるが、科学的には死は消滅である。

 

自分が死んだ後は、自分は苦しまない。生きるのが苦しいから自死を選んだということは、苦しみから逃れたということでもある。それを非難するわけではない。私もその選択をしないとは言えないからだ。

 

自死は「生きる苦しみから逃れること」と言っても良いだろう。

 

「自分の死」はこの世から消滅するだけのことである。

 

しかし、その死は周りの者を苦しませる。いや、周りの者の中にはその死を迷惑に感じる者もいれば、なんとも思わない者もいる。

 

死の影響を受ける者は当然この世から消滅する自分なのだろうけれど、この世で苦しみながら生きることになるのは、あなたを愛している人たちだ。

 

そう、あなたを「あなた」と呼ぶ愛する者たちが、この世で苦しみながら生きることになるのだ。

 

「自分の死」はこの世から消滅するだけだ。

 

しかし、「あなたの死」はあなたをあなたと呼ぶ者たちが苦しみながら生きることになる。これは、自死を考える上で大切なことだと思う。

 

しかし、あなたの周りには、あなたをあなたと呼ばない第3者がいる。他人の死だ。

 

彼の周りには、上司や部下もいただろう。県警という組織もあったろう。職場の中には彼の死を悼んだ者もいるだろうが、多くは忘れ去られている。USBを盗んだと濡れ衣をかけたと思われる上司は、インタビューで「同じように他の者にも確認した」というようなことを答えたとか。この上司の言葉は、「同じように他の者にも確認したのだから、彼だけが特別ではない。彼の死は私のせいではない。」ということなのだろうか。

 

というように、自死を選らんでも、何ら意に介さない、いや、それが迷惑だとか、もう過去のことだから触れたくもないと思う人だっている。そして、「彼の死」を客観的に考える私のような者もいる。第3者の死は、心があまり痛まない。

 

死者や遺族の方にきついことだが、「USBメモリーを抜いたのは私ではありません 命をかけますので信じて下さい」と、命までかけて得たものは、家族の苦しみなだけだったともいえる。この私の考えを非難する人もいるだろう。しかし、自死を考える上で避けて通れないことだ。自死は「あなた」と言ってあなたを愛する者を苦しめるだけなのだ。

 

モリカケ問題を考えてみよう。近畿財務局の職員は自死して、その上司やそのまた上のボスは良心の呵責に苛まされたか。早く幕引きを図ったじゃないか。真相を徹底的に究明しようとしてはいないじゃないか。マスコミももう忘れ去っているじゃないか。

 

安易なことは言えないが、この科捜研の職員の死も近畿財務局の職員の死も、ホントに自死と言えるのかと疑いたくなる。どう疑っているのかは言えないが。

 

死には

自分の死と

あなたの死と

他人(彼・彼女)の死

 

の3種類あるんじゃないだろうか。

 

また、

現実的な死と

人に忘れ去られる死と

人は2度死ぬのかもしれない。

 父方の祖父母は私が生まれる前に亡くなっている。だから、当然、私に思い出はない。
 
しかし、母方の祖父母は私が小5のときと、中2のときに亡くなった。だから、母方の祖父母との思い出は沢山記憶に残っている。そこで考えることは、母方の祖父母は私の心の中で生きているのではないかということだ。
 
「死」には、本人の生命上の「死」と、その人と繋がりがあった人の心の中での「死」の2つがあるのではないかという考えに至った。

 

 

自死は病死だ。だから、自死した者を責められない。しかし自ら死を選ぶというなら、死を選ばないという選択もあるのだ。

 

では、自死を選ばないようにするには、自死を選ぶという精神的な病におかされる前に、自死について考えておくことが重要だ。

 

自死を選んで最も辛いのは、自分ではなく自分を愛してくれている者達である。自分の死を自分が受け入れられるかどうかは分からない。いや、自分はこの世から消滅しているので受け入れる受け入れられないという問題ではない。しかし、あなたを愛する者はあなたの死は受け入れられずに苦しみながら生きることになるのだ。自分の命は自分だけのものではないのではないかという思いにいたった。自分をあなたと呼ぶもの達のものでもあるんだよ。

 

と考えると、人に自死を選ばざるを得ない状況に追い込む者は何と罪深いのだろうか。

 

人を死に追い込んだ者達は、自分の罪深さを知らず、かえって自分達は加害者ではないと思ったり、被害者面をしたりする。何と理不尽なことだろうか。

 

愛する者に生きていてほしいと願う者は自死を選んではいけない。

チューが不治の病におかされたとしよう。
 
あぁ、彼が苦しんでいても、1分でも長くこの世にいてほしいという気持ちがある。


あぁ、少なくとも、他人(我が子)に苦しんでも生きてほしいと願う私は、病で苦しんでも自死を選んではいけないのだ。私の父も、病で苦しんでいたのに、私たちにその苦しんでいる姿も見せず、愚痴も言わなかった。彼が倒れるその日まで、その日、彼が倒れるとは思いもよらなかった。その日のうちに亡くなった。彼を見習わなくてはならない。
 
少なくとも、私には、「自分で選ぶ死は『救いではない』」ということを心に刻もう。

 

ということを、私は意識しよう。意識しよう。