つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

「ほめて伸ばす」って本当かしら❓🤔~「ほめる」「承認」「ミルトンモデル」~

日曜日。

昨日までの雨が嘘のように晴れ上がり、気持ちの良い朝だ😄☀️。

 

6時30分に朝風呂に入り、7時に家族で朝食をとった😄。今日はパパはお仕事。7時30分には家を出る。チューとママは乗馬をしに行く。

 

朝食を食べながらチューが、「外は晴れています。良かったです。」という。妻が「そうね。」と応えている。

 

よほど嬉しかったのだろう。しばらくすると、チューは、また、「外は晴れています。良かったです。」という。妻は「そうね。良かったね。」と応えている。

 

自分の気持ちを素直に表現することは良いことだ。情緒が安定している😊。

 

課題を探せば、沢山ある。今回のこの会話にもならない言葉のやり取りにも課題はある。

 

「です。ます。」口調は、丁寧ではあるが、親子や親しい関係の人に対して使うのは、やはり違和感を持つ人が多いだろう。これも彼の特徴なのよ。

 

しかし、粗野な言葉を使うことと比べたら、比べ物にならないくらい良いことであろう🤔。

 

表現力にしたって、客観的に見たら、大きく欠けている。親である私からしたら、「晴れました。嬉しいです。」を繰り返す彼はとても微笑ましくて嬉しいのだが、赤の他人ではそのように見ない人もいるだろう🤔。

 

素直さ。「素直なことは正しい」という常識がある。しかし、素直すぎるのは、また問題だとも思うのよ。

 

いや、言い方が変か🙄。

言い直そう☝️😅。

年齢に応じた素直さがあると。

 

世間的には、中1のチューには中1の素直さがあるということよ。人それぞれと捉えることも大切だけれど、年齢相応の発達という視点も持たなくてはならない。

 

「人それぞれ」とか「個人ごとに異なる」という考えは、奇麗事や言い訳、慰めになる危険性もはらんでいる。だから注意しないといけない🤔。

 

「みんな違ってみんないい。」と言うのは、社会性があることが前提だと私は思うのよ。

 

そんなことが書いてある私のブログを引用するね👋😄

 一年生の時の運動会。徒競走の意味も分からない。みんなでダンスする意味も分からない。担任の先生がずっとあなたの隣りに寄り添った。パパとママのそのときの願いは、あなたが集団の中に埋もれてくれること。つまり、みんなと同じ行動がとれることだったんだ。
 
パパの考える人間の個性は、集団行動が取れる中で、それでも人それぞれに輝くものなんだ。これは色々な意見があるけれど、パパはそう考えるんだ。人間は社会性を持った動物。社会性は大切だ。生まれ持ったもので、社会性を持てない人もいる。社会性を持てない人でも、社会性を持つ人がその人を包み込む。あなたには、その包み込む方になってほしいと願っているんだ。集団行動の意味が分からなければ、社会性も育まれにくい。

 

人は勝手に思うもの。そんな危惧をする私がおかしいのかもしれない😌。

 

なんて、小難しく考えず、「あぁ、良かったね。」思えば良いんだろうが😅。

 

そうそう。

先日、発達の教室に私が車で連れていったときのこと。

 

信号が赤になったので、車を停車し、そこでチューをおろした。そして、横断歩道で私の車を横切って教室に向かうのだが、チューは一向に横断歩道を渡ろうとしない。後から走って渡る人もいるのにチューは渡らない。ふと歩行者の信号に目を移すと…。点滅していたのよ😄。

 

彼は「信号が点滅しているときは横断歩道を渡らない。」ということを徹底しているのね😳。

 

それは正しい。

立派だ。

 

私は迎えに行ったときに、早速彼を褒めた。「立派である。」と。夕食の時も、ママとバアちゃんの前で、そのことを褒めた。

 

褒め方って大切だと私は思うのよ☝️😄。

 

①個人的に褒める。

②みんなの前で褒める。

③第三者を通して褒める。

概ね、この3つのパターンがあるのよね🙄。

 

チューには①と②をセットにして褒めることが多い😄。

 

右折車、左折車があるんだもの。危ないよ。点滅した信号で渡るのは。

 

しかし、いわゆる健常と言われる他の子どもたちはどう思うか🙄。チューを「融通の利かない変なやつ」と思うだろうか🤔。

 

安全で正しいことをする人を煙たがる傾向はある。でも、安全に注意しながら外を歩くのは正しい。「融通の利かない奴」と思われたら、そう思った方がおかしいとしておくか😅。

 

そこでふと思ったことは、「ほめて伸ばせ」ってホントかしらという疑問🙄。

 

この疑問は、誰でも薄々気がついているはず😅。「『ほめて伸ばす』は万能じゃない」ってことを。

 

幼児は「ほめて伸ばす」で良いと思う🤔。

 

しかし小学校の高学年くらいになってくるとほめて伸ばすだけでは通用しなくなる😅。

 

親や教師は、何となく経験則で知っているんじゃないかしら🤔。

 

幼児の頃は「ほめて伸ばす」が万能だったが、年を重ねるにつれて万能でなくなる理由を、私の経験をもとに、なるべく客観的に考えてみよう☝️😄。

 

まず「ほめる」とはどういうことか具体的に考えてみる🤔。

 

皆さんはどのようにして相手をほめるかな?すぐに思い付くのは「言葉で」ということだよね。

 

①「凄いね。」

②「素晴らしいね。」

③「そんなこともできちゃうんだ」

④「とっても上達したよ。」

⑤「丸が多くなったね。」

 

この5個のほめ言葉は2つのグループに分かれる。

 

①~③は評価。

 

④と⑤は事実。

 

③と④の違いが微妙かな🙄。

 

③は「そんな」「も」「~しちゃうんだ」というフレーズに「驚き」という話し手の感情が入っている。これも相手に対する評価の一つよ😄。だって出来て当たり前なら「驚き」はないんだから。出来たことに驚くという相手に対する評価が入っているだろう。

 

④の「とても上達したね」は、「とても」が評価に近い。しかし、例えば、全く逆上がりができなかった子どもができるようになったとしたら、話し手と逆上がりが出来た子にとって「とても上達した」ということは、共通認識とも考えられる。認識していることが、その人にとっての事実である。

 

「ほめる」と言うと①~③のような、評価が入るほめ言葉を使うことだと思う人がほとんどなのよね🙄。

 

幼児の頃は、出来ないことばかりである。そんな幼児から見たら、周りにいる大人は出来ることばかりである。

 

出来る者から「凄いね」と言われたら、そりゃ嬉しいだろう。

 

また、「凄いね」とか「素晴らしいね」と評価されると、相手を見下したと受けとる可能性もある。

 

「凄いね。(私はあなたがそんなことができるとは思っていなかった)」。

 

まぁ、そんな含意がなく、ただ単に「凄い」と感嘆することもあるが、教育現場で大人が子どもに対して発する「凄い」のほとんどは、「あなたがそんなことができるとは思っていなかった」という意味が含まれていると考えて良い。

 

子どもは年齢を重ねるにつれ、自分をほめた相手に、「あなたは本当に私のことを『凄い』って思っているの?」と思うようになるのかもしれない🙄。

 

ものすごく尊敬する人からのほめ言葉であったら、「凄い」の一言で嬉しくなるだろう。

 

しかし、私のような凡人は「ほめること」を多用するよりも、「出来るようになったね」とか、「前よりも点数が上がったね」とか、「宿題をやってきたんだね」というような事実を伝えるように心がけた方が良いと私は考えるのよ🙄。

 

高学年になるにつれて、色々と物事を知っていくと、その評価のほめ言葉の裏を読んだり、白々しく聞こえたりするんじゃないかしら🙄。

 

評価のほめ言葉を使うのであれば、評価された相手が評価されて納得するくらいの力がなくてはならない。

 

小学高学年から高校生の間は、いわゆる反抗期。親を親とも思わず、教師を教師とも思わない。根拠もなく世界は自分中心で回っていると思う時期である。歯牙にもかけない大人から「凄いね」なんてほめられてもちっとも嬉しくはなく、かえって煩わしいと感じるのよ、きっと。

 

だから、「凄い」とか「素晴らしい」という言葉をあまり使わない。チューには使うが、指導している生徒にはあまり使わない。

 

私の声かけのパターンの1つを紹介するわ😄

 

「出来たね~。嬉しいなぁ。あなたなら次も出来るよ。」

 

承認→アイメッセージ→チャレンジ。承認とミルトンモデルを混ぜるのよ。ミルトンモデルって簡単にいうと「催眠術」と私は理解している。さっきの言葉の中のどこが「催眠術」なのかしらって思った方は、考えてみてね😉✨。

 

そう❗️☝️😄

相手を動かす声かけは、色々取り混ぜるのが基本よね😄。

 

成長すると「ほめて伸ばす」ではなくて、「認めて伸ばす」方が良いかもしれないわよ😉✨