つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

宗教談義4

1/3=0.3333・・・(無限に3が続く)。

この等式が正しいと考える人がほとんどだ。

では、

1=0.9999・・・(無限に9が続く)

となると、この等式はおかしいと考える人がほとんどになる。

 

なぜだろう🤔

 

このブログは、専門書じゃないから、突っ込まれどころが満載であることは断っておくわね😜。

 

さて、

「1=0.9999・・・」を認めない人は、「1/3=0.3333・・・」も認めてはいけない。

だって「1>0.9999・・・」って考えているんでしょ。だったら「1/3>0.3333・・・」って考えないと、思考の一貫性はないわ😅。

 

1/3=0.3333・・・を認めるのなら、1=0.9999・・・を説明できるわよ。

1/3=0.3333・・・①

1/3×3=1②

①と②より

0.3333・・・×3=1

0.9999・・・=1

 

これで騙されたと考える人は、高校で数学をよく勉強してね😉✨。これは「極限」と言うもので0.9999・・・は、最終的には1に収束するという意味を持つ。

数学の話はここまでとするわ😅

 

何でこんなお話をしたのか。それは、人が「極限」や「無限」の世界を考えるには、「想像力」が必要なことを伝えたかったから。

 

いつまでも続くものを、そのまま書き表すことは不可能だ。人間は有限だ。目に見えている世界も有限だ。無限に続くことって、頭の中で想像するしかないのよね😄。「無限」は「永遠」に言い換えても良いのかもしれない🤔。

 

星にも寿命がある。

宇宙にも寿命がある。

しかし、その寿命は、永遠と言ってもよいくらい長い。10の100乗年後といわれる。いや書いてみよう。

 

10000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000年後😱

 

凄いよね~😅。

「1/3=0.3333・・・」であり、「1=0.9999・・・」ならば、「10の100乗=無限」とすりゃ良いのに。でも、そうはいかないんだろうなぁ😌。

 

割りきれなくて、小数が永遠に続く状態であることは分かる。

しかし、整数は、永遠に続く状態ではないから、どこかに終わりがあるだろうと考えてしまうのだろうか🤔。

 

でもね。この「終わりが必ずあると考える」こと自体、人間の脳の範囲内なんじゃないかなぁ🙄。きっと人智を越えるところに宇宙があるのよ。宇宙への挑戦が、現代版の神への挑戦なのかもしれないわ😅。

 

そう考えると、一神教ってつくづく、人間的だなぁと考えてしまう😔。

終末思想。やはり、この世には終わりがあると考えてしまうのだろうか。

終わりに向けて一直線に進んでいく。唯物史観をもとにした「古代→中世→近世→近代→現代→社会主義共産主義」と歴史を科学的に考えたそうだが、何か、キリスト教の終末思想を乗り越えていないんだよなぁ🤔。まぁ、恐竜も滅びたというし、滅んだ種なんて沢山あるわけで、人間という種が滅ぶのは分かる気がする。でも、人智を越えたところには、滅びないものがあるかもしれない。

 

でも、こうも考えられる。宇宙の外の世界があるかもしれない。宇宙という水槽の中に地球が浮かんでいるのかもしれないわ。そして宇宙よりも大きな存在が、私たちの様子を眺めているの😱。そう❗️宇宙の外は造物主の世界なのよ。

 

そうか☝️😄

 

宇宙は無限であるかもしれないし、有限であるかもしれないわ。

 

無限や有限を考えたり、宇宙について考えることは、神について考えることなのだ。

世の中の出来事を数式に表すことは、神への挑戦。数学も神への挑戦。0を生み出し、負の数を作り、虚数まで作り出し、その上、複素数まで考え出した。

宇宙の始まりはビッグバンであるという。でも、ビッグバンの前はどうだったのか?それは虚数の時間(虚時間)だったとされる。

ここまでいくと、よく分からない🤷‍♂️。虚数の時間って何なのよ~。

 

こうなると、私には科学の神学論争に見えてしまう。イエスは神か人か。司祭者たちの会議で三位一体説やイエスは神性と人性の両面を持つなどが決まっていった。

 

凄い😱。

救世主に関することが聖職者の会議で決まるということが凄い。

 

えっ❓何が凄いって😅。

聖職者といえども、造物よ。神によって作られた人である。例えて言えば、私が作った粘土の狸が、私の性質について会議で決めたのよ。私は、こういった面が、キリスト教の凄さであり、欧米諸国の文明文化が世界を席巻した理由であると思うの🤔。「神学」という理屈で神までも定義してしまう「論理」の力。

これが科学でも言える。目に見えないことも数式で語ってしまう。虚数の時間まで作って説明してしまう。この宇宙を語る科学における「虚数の時間」が、キリストを語る宗教における「三位一体」とダブって見えてしまう。

 

ごめんなさい🙇。あくまでも私の主観。でも、科学も宗教といわれる所以をここに垣間見ることができるのよ。

 

当然ね😔。昔の科学者は敬虔なキリスト教の信者が多い。神はこの世から去った。しかし神の意思をしりたい。神がこの世に残したものから神の意思を知ろうとした。そこでこの世の中を観察した。花びらの美しさ、天体の運行の規則性、この世の成り立ち…。思考の道具として数式を駆使した。仮説を立て実験した。そしたら、神の教えと相反するものがワンサカ出てきた😱。

 

神の教えでは天動説。しかし、それでも地球は回っていると言ったとされるのはカトリック信者のガリレオ・ガリレイ。彼は聖書は古代ヘブライ人の考えにすぎず、キリスト教の教えそのものではないと割り切った。

 

科学が宗教だとしても、いわゆる宗教よりも客観性があるから、多くの人に受け入れられた。だからマルクス主義を信じる者は、マルクス主義を科学だと言い張った。

 

私は、社会主義国家や共産主義国家も宗教国家である。民主主義を標榜するアメリカも宗教色の強い国である。日本も宗教国家である。この見解はブログの中で何度か語っている。最も古いのがこちらのブログ👋😄


日本と歴史190205 - つれづれなるままに

人の営みは宗教を抜きにはできないのよね😄

 

これまでの「宗教談義」はこちらからリンクを遡ってね👋😉✨


宗教談義3 - つれづれなるままに