つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

宗教談義8~神の悲痛な叫びとは~断っておくけれど、危ないブログじゃないわよ😅

宗教談義をする際に、いつも断っておくことがある😅。

 

私はどこの宗教にも属していない、典型的な日本人だあるということを。そして、浅学なので、間違った知識があったら、ぜひ指摘してね🙇。だけど、解釈の仕方は人それぞれであるとご了承を😅。だって仏教やキリスト教の宗派があんなに分かれるのは、解釈の違いだものね😉✨。

 

全知全能の造物主がこの世を作った。

 

1日目に造物主は天と地を作った。暗闇の中、造物主は光を作り昼と夜が出来たとされる。2日目に造物主は空を作り、3日目に大地や海が生まれ、地に植物を生えさせた。4日目に造物主は太陽と月と星を、5日目に魚と鳥を作った。6日目に造物主は獣と家畜と、神に似せた人を作った。そして、7日目に神はお休みになった。

 

全知全能の神である。

全てのことを知り、全てのことができる神である。その神が人を作った。

その人が、神の領域に臨もうとしたのが、ハベルの塔だ。神に近づこうと、高い高い塔を人々は協力して建設している途中で、神の逆鱗に触れた。

主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。— 「創世記」11章1-9節[6]

 

そうか🤔

人々が異なる言葉で異なる思想なのは、神の思し召しなのだ。神は人が1つになることを望んでいないのだな。ということは、人それぞれ異なる宗教を信じているということは、神が望んだことになるんじゃないかしら🙄。

 

布教活動をすることは良い。それも自由だ。しかし、自分と異なる宗教だからと言って、戦争をしたり相手を殺すということは、神の思し召しに逆らう、神に対する罪とならないかしら🤔。

 

いや、バベルの塔の話を持ち出すまでもなく、全知全能の神がこの世を作ったと信じる人は、この世に様々な人種がいて、民族がいて、異なる宗教や文化があるということ自体、神の深い思し召しと考えなくてはいけないんじゃないかしら🤔。

 

多種多様な人がいるのは、神が人に与えた試練❓🤔。だから、多種多様な人々を殺し、強制的に改宗させ、1つの宗教にすることが神の思し召し😱。

 

こう考える人がいたら、私はこう聞き返す。「その宗教を人類の唯一の宗教としたものは何か」と。そして、「人々の言葉を散らし、全地に散らしたのは神なのよ。」と。その後、神は人が1つにまとまることを望んだということは、どこに載っているのかしら❓🤔。1つにまとめるため、もしくは異教徒を殺せと、どこかに載っているのだろう😔。

 

それは「聖絶」か❓🙄。「聖絶」とは神への捧げ物。人の場合は、必ず殺さなくてはならないという。

 

不思議だ。

それを信じないものからすると不思議でならない。

 

全知全能の神が人を作ったとするならば、人は被造物である。被造物と被造物が殺し合うのは、それが異教徒であっても、捧げ物であっても、神への冒涜とならないのかしら🙄。だって慈悲深い神が、自分が作ったもの同士、争い殺し合うことを望まないだろう。

 

例えば、私が作った粘土細工のくま同士が争うのを私は望まないだろう。それを神が望むというのかしら🤔。

 

自分で人間を作っておいて、それに言葉も別々なものにしておいて、争うことを望む神ならば、私はそんな神を信じない。

 

人が人を殺し合う罪を「神がお命じになった」とか「神への捧げ物である」として、人が神を隠れ蓑としたのではないかと考えてしまう。

 

旧約聖書に出てくる神は、迷える神である。人を作ったは良いが、アダムとエバに裏切られ、アダムは神に言い訳し、カインには居直られる。悪が蔓延ったからと、人々を洪水に流しリセットし、義人ノアも、洪水から救われたあと、堕落した。

 

このどこが全知全能の神なのか。

 

人は造物主に作られた。それは私も信じよう。人は何者かに作られたのだ。

 

しかし、その何者かは「全知全能」ではなくて、「迷える」方なのである。そして、「慈悲深い」方なのである。

 

だから、多様な人々が世界に生まれた。1つにする必要はない。神が多様性をこの世にもたらしたのなら、人はそれを享受しよう。神もきっと、「この世はままならぬもの」と笑っておられよう。そして、「殺し合いはならぬ」「助け合え」と、私たちの見えないところで叫んでおられよう。

 

私たちは、その神の叫び声を聞き、その叫びに従わなくてはならないと思う。私の心にはその叫びが聞こえている。

 

人と人、国と国がいがみ合い、殺し合うニュースを聞くと、心が痛む。

 

神は人の心である。

神は人の心に宿る。

 

だから、この心の痛みこそ、迷える神の叫び声だと信じる。

 

これまでの宗教談義はこちら👋😄