8月15日は終戦の日~敗戦の日は9月2日よ~
8月15日に思うこと。
この日は、日本が停戦を発表した日だ。
降伏文書の調印して戦争が終了する。停戦した国を攻めるのは道義的には問題だが、降伏文書に調印しなければ、正式な降伏にはならない。
日本の指導者の戦争指導が、あまりにも杜撰であったということ。
そして、その杜撰な戦争指導で、幾多の国民を死にいたらしめたということ。
その結果として、他国に迷惑をかけたということ。
負けたことがいけない。いや、負けると分かっていても戦争を続けたことが最もいけない。
客観的なデータと資料の分析で、勝てると判断できない戦はしてはならない。
「勝てれば戦争をしろ」と言っているわけではないわよ。また「負けるなら唯々諾々と他国に従え」と言っているわけでもないわよ。他にやりようはあるはずよ。
今も世界各地で武力による争いが起きている。戦争をするなら、勝つ、もしくは引き分ける落としどころを想定せねばならない。日露戦争はそうだった。
戦争は悪だ。
私もそう考える。
しかし、世界を見渡すと、道理や常識が通じないことなんて沢山ある。
戦争はなくならない。だから戦争をなくそうとする努力が必要なんだ。
それにしても、戦前の指導者は、日本国と日本人に重い十字架を背負わせたものよ。
世界は五大国に牛耳られている。
近隣の国は日本をよく思っていない。
国土は減らされ、外国にあった資産は捨てさせられ、日本の血税は吸収され、それでも日本を仮想敵国にしたり、蔑んだりされてしまう。
日本の領土も領海も領空も外国の軍隊が我が物顔でいまだに行き来している。
多くの、いや多くのでは表せないぐらい多大な犠牲を出し、それでいて負けた原因を作った戦争指導者を崇めるなんて、理解できないだろう。
いや、日本の歴史、文化、風土、情緒、宗教を知れば、理解できる。しかし、理屈では理解は出来ないだろう。
A級戦犯となった者たちを、日本人は裁き、死刑にはできなかっただろう。裁くことも出来なかっただろう。だって主権が回復した後に、戦犯として不起訴になった者を日本人が起訴して戦犯にしても良かったのだもの。しかし、それは出来なかった。いや、それどころか、主権回復後まもなく、国会でA級戦犯が公務死とされたことが物語っている。そして多くの国民がそれに賛成したことも。
また、戦前の政権の系譜を持つ政党がいまだに政権についていることを踏まえると、日本人は戦争指導者を戦犯に出来なかっただろう。
敗戦後、首相となった皇族の東久邇宮稔彦首相は、記者会見で
「ことここに至ったのはもちろん政府の政策がよくなかったからでもあるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際、私は、軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならないと思う」
と語り、多くの国民の共感を得たと言われる。
この東久邇宮稔彦首相の言葉に、違和感を持たない方は多いと思う。違和感を持っても、その違和感を説明できない人が多いと思う。
天皇制がいまだに続き、戦前の系譜の政党がいまだに政権につき、誤った戦争指導をした者たちが靖国神社に合祀されている。
戦前の政権の中枢にいた者の子孫が政治家となり、戦前の政権の中枢にいた者を崇めていることを公然と主張している。そして憲法を変えて、美しい国、誇りを持てる国にすると言えるんだもの。
いや、子孫には責任はない。あの戦前の政権の中枢にいた人物が復権し、美化することが問題だと私は思うのだ。
こちらが、その1人👋
岸信介はこうして「極刑」を免れた~明かされるGHQ尋問の真相(魚住 昭) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)「関東軍が満州の支配権を握っていて、われわれが何かやろうとすると、必ず関東軍の許可がいった。関東軍の意向を無視すれば地位を失うぞ、と私も同僚もしばしば関東軍に脅された」
「私が満州で多くの軍幹部と親しくなったのは事実だが、関係が常に良かったわけではない。石原莞爾・参謀副長のような人から叱責されたこともある」
要は自分を関東軍と同一視してくれるな、関東軍の絶対権力に従わざるを得なかったと言いたいのだろうが、本当だろうか。
その事実は…。
「私は日本で食い詰めて満州に来たわけではない。産業経済については任せてもらいたい。もし関東軍の言いなりになれというなら、自分ではなく誰か代わりの者をよこしてもいい」
超エリート官僚の強烈な自負心の表明だった。これに対し板垣は「いや、産業経済の問題は君に任せるつもりなのだから、そのつもりでやってくれ」と答えた。こうして岸は満州の産業経営の主導権を握った。
なるほどなぁ🙄。
似ている。言い張れば、事実が事実でなくなる。
話を戻すわ。
治安維持法を使って思想を取り締まり、政府に反する者を弾圧したのは政府であり、その手先の警察である。特高警察という怖い組織もあった。
思想も表現も報道も規制されたのである。
統帥権を盾に横暴を極めたのは軍部である。
満州事変は関東軍の暴走である。
リットン調査団の報告を蹴ったのは外務大臣である。
テロやその未遂事件を起こし、果ては5・15事件や2・26事件と言った武力によるテロやクーデターを起こしたのは軍部である。
2・26事件を利用して軍部大臣現役武官制を復活させたのは、軍部と政府である。
国家総動員法を制定し、議会を形骸化し、国民を戦地に送り出さしたり工場で働かせたりして、国民の生活をがんじがらめにしたのは政府であり軍部である。
大政翼賛会を作り、政党を解党し、隣組を作り国民相互の監視社会を作った。
開戦も終戦も国民の知らぬところで行われたのである。
そして、戦地で父が死に、兄が死に、弟が死に、子が死んだ。その遺骨は家族のもとに戻ってこない。放置され続けた。アメリカの軍人は戦死したら国家を挙げてその遺骨を探す。
「特攻」などという、命軽視の武器を作った。
「生きて虜囚の辱しめを受けるな」と軍人や民間人に捕虜になることを禁じ、救えた命を捨てさせた張本人は、敵の捕虜となり刑死した。
挙げていったらキリがない。
当時の国民のどこに「道義のすたれたところ」があるのか。当時の国民のどこに戦争の責任を負うところがあるのか。当時の国民のどこに戦争を行う決定権があるのか。
しかし、当時の国民は「一億総懺悔」に共感し、流行語にもなった。
戦争に賛成せざるを得なかった。当時の教育や社会状況で洗脳されていた。それでも、国民は戦争に賛成していた、戦争を望んでいたとも言う人もいるだろう。
それは反省しなくてはならない。
しかし、戦争に賛成することや戦争を望んでいたことと、戦争をすることを決定したこととは別のことなんだ。
当時の政府(内閣)は、天皇の補弼(補佐)機関だ。国民の代表ではない。今の国務大臣は国民の代表者からなる国会議員から過半数が選ばれ、内閣総理大臣は国民の代表者だ。内閣のしたことは主権者である国民の責任でもある。しかし、当時は国民は臣民と呼ばれ、主権者ではない。そこは第一次世界大戦後のワイマール憲法下のドイツとは異なる。
国民にあの先の大戦の開戦と敗戦の責任があるとしたら、どこにあるのだろうか。
責任がある者には決定権がある。
いや、日本と戦った国の人から、日本国民に戦争責任があったと言われるのなら、主権は国民にはなかったと主張するだろう。それは通用しないのだろうが。
それに、責任があったとしてら、それは当時の日本国民にだ。私はたまたま日本に生まれただけで、そんな原罪を持ってはいない。あんな戦争を起こさないように学びはするが、あの戦争の責任はない。なぜなら私には過去の出来事に決定権がないのだから。
外国では、この理論は通用しないだろうが。
ブログの中でも、東京裁判やあの大戦の原因を何度か言及している。
私は東京裁判に対する思いは複雑である。
しかし、確信していることが一つある。
それは、先の大戦の戦争指導者を日本人の手では死刑には出来なかったし、裁けなかったということだ。
日本には、民衆が為政者を裁いた歴史がない。
古代から中世にしたのは、武士という階層だ。しかし、朝廷という前政権が残った。
その中世では、武士という階層の中で政権交代があった。
正長の土一揆があるが、これは幕府に徳政令を求めたに過ぎない。
加賀の一向一揆は、加賀の本願寺門徒らが中心となった信徒による一揆であり、以後、信徒によって自治が100年近く続いたが、一地方のことだ。幕府政治を民衆が倒したわけではない。全国的に見たら武士政権が続いた。
その武士政権である幕府を倒したのは、明治維新であるが、それは下級武士が中心となって倒したに過ぎない。徳川幕府が薩長幕府となり欧米列強をモデルに国を作ろうとした。
近現代の政権交代の要となる選挙制度も、民衆が勝ち得たというよりは、政府主導で整えられていった。民衆が勝ち取ったわけではない。戦後の民主化も、国が敗けてアメリカから授かったものである。
日本の民衆は、政権を裁いた経験がない。
約12年前に、国民の力で政権を変えてみたら、その政権は国民の期待どおりではなかった。そして東日本大震災で混乱した。当時の野党は与党の足を引っ張った。当時の野党が与党のままであっても、大混乱したであろう。
これまで真の意味での民による政権交替がなかったのである。稚拙さは当然織り込み済みなのに、それを悪夢であると戦前の政権の系譜を持つ現政権は喧伝し、国民はその喧伝を信じる。選択肢がないから現政権を支持すると言うようになる。
あの民主党政権の時代が悪夢なら、戦前の政権の時代は地獄であったろう。
日本の民衆は、寄らば大樹の陰で、大樹の中が白蟻でいっぱいとなっていても、木を移ろうとしない。その結果が先の大戦の敗戦だと考える。そして、コロナ禍でそのツケが回ってきている。