つれづれなるままに

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志村けんさんの死を悼む~小池知事の「彼の死を功績とする」コメントの問題点~

今、ブログ界隈で志村けんさんの訃報に関して、多くの人が言及している。私は、ツイッターを閉じているので分からないが、ツイッターの中でも、志村けんさんの訃報のツイートがたくさん流れているだろう。

 

志村けんさんがコロナウイルスで亡くなったのは、ショックだ😣。知り合いではない方の訃報で、ショックを受けたのは、志村けんさんが初めてかもしれない。いや、昭和天皇が崩御されたときもショックだったが、天皇陛下の崩御は別格である。

 

私はドリフ世代だ。そのドリフターズの中で、もっとも若く、彗星のように現れたのが志村けんさんだ。東村山音頭、ひげダンス、コントでは桜田淳子との夫婦コントが面白かったなぁ。何度見ても腹を抱えて家族で笑ったよ😄。この何度も同じコントを繰り返してやり、それを見ても、腹を抱えて笑えるのが、志村さんのコントの特長かもしれないなぁ🤔。

 

8時だよ全員集合は、俺たちひょうきん族におされ、番組が終わることになった。私は最後までドリフ派だった。山田邦子の絵描き歌のところだけは見ていたが😅。

 

火曜日のドリフターズも面白かったなぁ😊。「もしも~だったら」シリーズが好きだった。最後は、いかりや長介さんの「ダメだこりゃ」で終わるのよね🤣。

 

あの作り込まれたコントを越えるコントは多くないだろう🙄。

 

私はウンナンやダウンタウン、野沢直子、清水ミチコの6人でやっていた深夜番組、「夢で逢えたら」も楽しんで見ていた。彼らのコントも素晴らしかった。しかしドリフや志村さんのコントはセットから全て作り込み、お笑い素人のアイドルや演歌歌手を巻き込んで、コントの中で彼らを光らせていた。

 

今、お笑い界で求められているものは、即興の笑いである。いや、これは言い過ぎた。テレビのお笑いに限定しよう。

 

ドリフ、そして、その系統を継ぐ志村けんさんの笑いは、作り込まれた笑いであり、また、何度見ても面白い笑いである。

 

漫才も、セットはないが、話は作りこまれたものだった。「怒涛のしゃべり+動きが大きい」やすきよ。「ブラックユーモア」ツービート。

 

このような作り込む漫才から、即興漫才、「消費笑い」としたのが、私は「ダウンタウン」だと考える。いや、彼らが悪いというのではなく、それがテレビ業界でもてはやされたのよ。「ごっつええ感じ」も作り込まれていたけれど、即興的な返しで笑わせる、「消費的な笑い」が主流になっていった。

 

その「消費的な笑い」の象徴が、「雛壇芸人」や「ガヤ芸人」となるのだろうか🤔。

古き良きコント師が亡くなった。

 

この志村さんのあとを継ぐお笑い芸人が見当たらない。私が知らないだけかもしれないが。

いや、しかし、コントではないが、志村型お笑いと言える若手を私は知っている。それは、ミルクボーイだと思うのよ。

志村型の笑いとは

①作り込んでいる

②何度繰り返しても色褪せない

③良い予定調和がある

まぁ、昔のバカ殿は、今じゃ放送できないほどハレンチなものだったが、当時は笑ってみていたなぁ😄。両親と一緒には見られなかったけれど😌。

 

ミルクボーイの「おかん」漫才も、この3つに当てはまると思う。1つの型よね、あの漫才は。ダウンタウンより前の、古き良き漫才なのよね。だから、ビートたけしさんや志村さんなどの大御所にうけがよいのよ。大御所にうけがよいから良いのではなく、良いから大御所にうけがよいのよ。

あと、千鳥の大悟ね。彼も昭和臭が漂っている。志村さんは彼のことを可愛がっていたとか。

 

今は、コンプライアンスがうるさくて、型破りな芸能人が出てこなくなり、みんなこじんまりとしている。そして、人の道を外そうものなら、みんな聖人君主面して、総叩き。いや~、ホント息が詰まるような世の中になったよ😱。

 

小池知事のこのコメントはいけない。

「まず、謹んでお悔やみを申し上げたいと思います。志村さんといえば、本当にエンターテイナーとして、みんなに楽しみであったり笑いを届けてくださったと感謝したい。最後に悲しみとコロナウイルスの危険性について、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、最後の功績も大変大きいものがあると思っています。お悔やみ申し上げます」

小池都知事、志村けんさん… (スポーツ報知) - auヘッドライン - auサービスTOP

https://news.headlines.auone.jp/stories/showbiz/news/13256891?genreid=3&subgenreid=7&articleid=13256891&cpid=10130088&rf=pass_search

これね。芸能界の仲間や一般の人が言ったのなら、私個人としては同感できないが、まだ許せる。

 

西田敏行さんは

「新型コロナウイルスと人類の戦争の最前線で壮絶なる戦いの末に逝った。彼は身をもって新型コロナウイルスの脅威を教えてくれました。志村けんさん、我々は貴方の死を無駄にはしません。新型コロナウイルスに打ち勝ちます。合掌」

と語った。これは全く問題ないコメントだ。

 

確かに、彼の死をもってコロナウイルスの脅威が改めて分かった。私も大変ショックを受けた。

しかし、小池知事のコメントはどうだろう🤔。

コロナウイルスの危険性について、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、最後の功績も大変大きいものがあると思っています。

まぁ、思うのは勝手だ。でも、これを功績と言って良いのか?🤔。

 

では、聞こう☝️😔

東日本大震災の津波でなくなった方々に

「津波の危険性について、しっかりメッセージを国民に届けてくださったという功績も大変大きいものがある」

と議員や知事が言ったら、遺族はどう感じるか。嫌な感情になるんじゃないかしら😣

 

志村けんさんは、無念だっただろう。まだまだやりたいこともあっただろうし、お酒だって飲みたかったろう。死は苦しかっただろう。それに志村けんさんにだって、遺族がいる。コロナウイルスのせいで、遺族は亡骸も見ることができず、骨も拾うことができなかった。悲しみは大きい。小池知事は、コロナウイルスにかかって亡くなる無念と苦しみ、そして、遺族の悲しみを想像できないのだろうか。それとも「功績」と言えば、死者は報われるとでも考えたのだろうか。

こういう無念の苦しみ、そして悲しみを国民に知らしめた功績というのだろうか。

コロナウイルスがこれほど世界に広がったのは、かの国の初動が遅かったからだといわれる。初動でコロナウイルスが発生したことを隠していたとしたら、これは人災でもある。となると、志村けんさんは被害者なのよ。それを「功績」と言うなんてとんでもない。

 

例えば、こんな人はいないと思うが、自粛が叫ばれ、濃厚接触を避けるように言われている中で、自粛を要請した方の身内に、大勢の仲間と花見をし、フェイスブックに上げた人がいたとしよう。その人がコロナウイルスにかかったとしたら、「コロナウイルスの危険性について、甘く見てはいけないというメッセージを皆さんに届けたという功績も大変大きいものがある。」と言って良いのかもしれないが🤔。

 

まぁ、これはもしもの話😎。だって自粛を要請した方は、沢山いらっしゃるし、もしも、そんな身内がいたら、これまた開いた口が塞がらないわ😱。

 

しかし、そういう人に対してでも、私は人の不慮の死を「功績」と言うことに嫌悪感を持つ。このような死を「功績」とすることは、ある種の危険性がはらんでいる。死は悼むものである。

 

志村けんさんが亡くなったことは、功績ではない。ただただ痛ましいだけだ。コロナの痛ましさは彼の死をもって国民に伝わった。しかし、それは決して功績ではない。

 

これを功績にしてしまうと、以下のような解釈もできてしまう。

 

コロナの危険性が志村けんさんの死によって国民に伝わったということは、国民はコロナの危険性を知らないということになる。

 

危険性を感じていない国民が、「ちょっと前までテレビに出ていた志村けんさんでも、コロナによって亡くなるんだ。危険なんだ。」と感じるようなったということだ。

 

「不用心をしていると志村けんさんでもコロナにかかって亡くなってしまう。」とも取れるし、「あれだけ用心していた志村けんさんでもコロナにかかって亡くなってしまう。」とも取れる。

しかし、志村けんさんがコロナウイルスを用心していたとは聞かない。不用心だったとも聞かないが、少なくとも普通に生活していただろう。彼の死を「功績」と言うのは、彼の死が、「普通に生活していていると、コロナウイルスにかかり、亡くなるんだよ。」という教訓になったと解釈できる。

 

ということは、小池知事の発言は、「彼のように不用心に普通に生活するなよ」と言うことになるのだろうか?🤔。

 

彼の死を「功績」とするならば、こういう解釈にもなるわよね。これは死者にも遺族にも大変失礼なことである。

不慮の死をとげた方には、ただただ、悼めば良いのよ。人の死を勝手に評価するな💢