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連載小説~深夜の謀議その2~「つれづれなるままに歴史を語る第5部」

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連載小説~深夜の謀議その1~「つれづれなるままに歴史を語る第5部」 - つれづれなるままに

 

(1)深夜の謀議その2

家康

「さて、豊臣を滅ぼしたあと、徳川家が安泰になるにはどうすれば良いか。」

 

天海僧正

「徳川家が王家になればよろしいかと思います。」

 

家康

「ほう。王家に?」

 

近世以前、権力者が自己の権力を強化することはエゴではなかった。今のような民主主義の世の中で、自己の権力を強化し、お友だちを優遇したり、公金で宴に呼んだりするのはエゴであろう。今の日本にそんな権力者はいないと信じたいが。当時は、権力が分散したら、即、戦争だ。権力は1つに集中させることが鉄則である。

 

家康は勉強家であり、歴史を学んだ。愛読書は、鎌倉幕府について書かれた歴史書吾妻鏡)であり、尊敬する人物は源頼朝である。だから、家康の旗は源氏が使っていた白い布だ。それに、三河時代、国守を名乗るために系図を買って藤原を名乗っていたのを、今度は征夷大将軍になるために新田源氏の系図を買った。系図を買うとは自分の出自を誤魔化すことだ。徳川家自体がこのような誤魔化しをしたものだから、江戸時代は系図の売買が横行したとも言われる。

 

家康は同時代の室町幕府の衰退と滅亡は目の当たりにしている。鎌倉幕府室町幕府を比較して、欠点を補い、江戸幕府を作ったのだ。家康の頭の中には、完全なる幕府の構想は思い描いている。しかし、それは自分では言わない。あくまでも家来に言わせるのだ。

 

林羅山

「なるほど、徳川家を関東の天皇とするのでございますね。」

 

家康は1543年生まれだ。鉄砲が伝来した年だ。今の謀議中の家康は数え年で71歳。天海は1536年生まれで78才。この二人は戦国の世のきっかけとなった応仁の乱後、70年経って生まれた。戦国時代真っ只中。そして、その戦国の世を終わらせる最新兵器が伝わった頃なのだ。これを踏まえると、戦国時代の最終的な覇者である家康の誕生と鉄砲の伝来が同じ年であるのは何かの因縁だろうか。

 

秀吉の天下は脆弱だった。卑賎の身から、日本史上最大の出世をした。最下層の身分から、信長の家臣の中で明智光秀に次ぐ地位にまで上り詰めたのも、あり得ないことであった。その信長の一家臣だった者が、1582年に信長が暗殺され、その後8年で、たった8年で天下を統一した。そこには無理も沢山あった。だから、組織も脆弱で、豊臣家の権威もなかった。

 

羅山は1583年生まれで32歳だ。室町幕府が滅びたのは生まれる10年前。室町幕府を滅ぼした信長も亡き世に彼は生まれた。現代で言えば、戦前生まれと戦後生まれと言うことか。いや、戦前生まれと、平成生まれと言った方が的を射ているかもしれない。彼は朱子学を学び、1605年23歳の若さで家康のブレーンとなった学者である。頭が良かったが、権力者にすり寄る、今風に言うと「権力者に忖度する」ところが多分にあった。机上の論理を作ることが好きで、また、才気走り、鼻につくところも多々あった。

 

(2)終わりに

徳川家を関東の天皇家にするとはいかなることか。1500字を越えたので、今朝はここまでにいたしとうござる。

 

良い一日を👋😄。