つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

未来を生きる子に対して今できることは。

今の小学生が私の年齢になるのは約30年後。2050年。今、主要ポストに就いている政治家も、いや、私もこの世にいない可能性が高い。

 

今を生きる者は、未来に生きる者に、かけがえのない地球を、環境を、そして今の豊かさを享受できる世界を遺しておく義務があると考える。

 

少子高齢がさらに加速し、高齢者を支える労働人口の比率が1:1になるという。つまり、若者1人が老人1人を支えるということだろう。もう、そんな世になったら、若者が老人を支えるということが常識ではなくなっているかもしれない。強者も弱者も老いも若きも、みんな同じ土俵で生存競争をしているかもしれない。

 

世界の人口地図も大きく変わる。現在開発途上と言われる西アジアやアフリカ圏の人口が世界の人口の大部分を占め、現在先進国と言われる国々の人口が少数派となる。となると人の信条も、西アジアやアフリカ圏の人々がスタンダードとなるかもしれない。

 

そういった中で、日本の人口は減り続け、2050年には1億を切るかもしれない。そして、その半数近くは老人かもしれない。日本は国内市場で何とか保てたが、今後は国内市場に頼れなくなるのは必然であろう。

 

子どもを持つか持たないかは個人の自由であるというのが、今の世界のスタンダードであり、その考えを否定する気はない。しかし、次世代に子を残すのは生物の本能だとも考える。何かしらの事情で子を生めなかったり、LGBTであったり、そういった事情がなければ、子をうみ、育てるのは動物の摂理であり、未来の社会を成立させるための使命だと考えるのは、不味いのだろうか🤔。

 

いや、この考えには危険性がある。「子を持たないのは悪だ」という風潮になる可能性がある。でも、この少子を止めるのは、そのくらいの強制力が必要なのだろうか🤔。

 

この「強制力」を持って子を持たせるのも、弊害がある。なぜなら、「嫌々ながら」子を持つ人が増えるからだ。「嫌々ながら」とか「仕方がなく」育てられた子の悲劇は、現代社会に蔓延っている。子どもの虐待がよい例だ。しかし、全体主義の考えで少子化政策を考えると、この虐待などの悲劇は一部と考え、仕方がないとなるのだろうか🤔。

 

この世に生まれてきた以上は、幸せに生きる権利は誰にでもあるとするのは人間の世だけだ。他の生き物は、生まれた瞬間、生存競争の厳しさに襲われる。いや、人間も生存競争に勝った精子がこの世に生まれて来ると考えれば、生まれる前も生存競争をしていると考えられる😔。

 

誰でも幸せに生きる権利があるという理念と、生存競争があるという現実。動物として生まれた以上、これは避けて通れないものなのかもしれない🙄。

 

ニーチェによれば、生き物は、自然に考えれば「強さが善」であり、「弱さが悪」である。それが、弱い奴が自分自身が弱いことを認めたくないから、道徳心というものを持ち出して、強い奴を見下し、道徳や倫理上は勝ったと思い込む。ルサンチマンである。

 

話を戻そう。

子を持つことを強制しない。しかし、子を持つ人やその子に対して優しい社会であってほしいなぁ😔。

 

今の子どもたちは、将来、社会を構成する国民が少なくなれば、少ない中で知恵を出して生き抜いていってくれるだろう。でも、人間って、基本保守的。今の制度が通用しなくなっても、しがみつく人も多いだろう、私のように。社会の暗黙の合意として、人口を減らしても構わないというのなら、仕方がない。子どもを生み育てやすい環境をと唱えても、あの生み育てにくい環境で、人口が爆発的に増えたのだからなぁ。でも、あの時代は、みんなが貧しかった。今は貧富の差が広がっている。時代状況が異なるか🤔。

 

色々とつれづれなるままに、少子化について語ってきたが、あっち立てればこっち立たずでどうして良いか分からない🤷‍♂️。

 

この力のないオヤジには、こんな少子高齢社会を立て直す術を持たない。ただ一つできることは、自分の子や自分と縁があった子の生き延びる力を育んでやるだけ。

 

チューよ、チュー。

パパが思い描く40年後は、明るくない。あなたはただでさえ課題がある子。弱肉強食が世の習いであれば、あなたは弱肉の方であろう。パパが生きている間は、少なくともあなたが生き延びられるよう手を打ち努力するが、パパが死んだ後は、あなたの力で何とかするしかないんだよ。妻にもチューにも、たまに言ってしまう、悲壮な言葉。

 

まずは今生きる者が幸せでないといけないね。でも、明日、いや遠い未来の幸せも考えなくてはならないなぁ。「今日の幸せ噛み締めて、明日の幸せに繋げていこう」

また明日も頑張ろう。