つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

豊臣秀吉と劉邦の共通点~つれづれなるままに歴史を語る~

羽柴秀吉は、主君織田信長に謀反を起こした明智光秀を天王山の戦いで破った。

 

その後、織田家の重臣会議である清洲会議で織田家の主導権を握った。筆頭家老である柴田勝家は信長の成人した三男信孝に家督を継がせようとした。

 

そうそう☝️😄。

本能寺の変の時の織田家の家督は長男である信忠が継いでいたのよ。

 

う~ん🤔

 

株式会社織田家

代表取締役会長 織田信長

代表取締役社長 織田信忠

専務取締役         柴田勝家

常務取締役         明智光秀

常務取締役         羽柴秀吉

常務取締役         滝川一益

取締役                 丹羽長秀

有名で、江戸時代加賀百万石の礎を作った前田利家は、役員ではなく、部長かしら🤔。

 

私からすれば非常に評価されているけれど😅、織田信長の家臣団の有名どころと比べると、あまり評価されていないのよね🤔。でも、信長のムフフのお相手だったのだから、ある意味、違った意味で評価されていたのよね😁。

 

織田家経営会議

①日付

天正10年6月27日(旧暦)

 

②場所

清洲城

 

③参加者

柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興

 

④議事内容

織田家の跡継ぎ

所領の再分配

 

前田利家は、このメンバーに入っていない。柴田勝家の与力だったのよ。柴田勝家と対等な立場だが、柴田勝家の指図を受ける。だから格は下ね。

 

池田恒興は勇猛で、本能寺の変後、中国攻めから引き返した秀吉と合流し、光秀を破った。その功績で織田家の宿老になった。

 

柴田勝家は成人している三男の信孝を跡継ぎに推した。とても順当な判断ね。

 

しかし羽柴秀吉は筋目を重視し、織田家の家督を持っていた信長の嫡男信忠の子どもの三法師を推した。「主君は筋目が大切。我ら重臣たちが織田家を盛り上げれば、幼君でも大丈夫だ。」というのが秀吉の弁。

 

いや~詭弁よね😎。

 

戦国時代の気風が色濃く残る安土桃山時代。筋目よりも、当主の能力がお家の存続を左右した。

 

簡単に、相続の歴史をまとめるわね😉。

 

鎌倉時代は分割相続だった。女子も相続できたのよ☝️😄。中学の歴史の教科書に出てくるし、史料問題として高校入試でも出題されている。

 

なんて現代的なの~💕。

なんて思ったら浅はかよ😎。

 

財産を分割していくのよ。分割していくの😨。親の財産を分割して子どもたちに与えたら、一人分の財産が少なくなる。当時の主な財産といったら土地だ。

 

~鎌倉ご家人「ゆう家」の話~

ゆう家にはチューとチュー太郎とチュー介、そしてチュー子がいる。チュー子は嫁いだが財産分与の権利がある。

 

ゆう家当主のゆうは100ある土地のうち、嫁いだチュー子に10与え、残りは3人で等分した。まぁ、現実にはこんな均等にはしていなかったが、分割相続だったことは事実よ😅。

 

チュー、チュー太郎、チュー介、それぞれ3人の取り分は30だ。

 

ということは、ゆうの次の世代の御家人1人の財産は100から30になってしまった。

 

1世帯当たりの財産が世代を重ねるごとに少なくなるのよ😌。

 

1世帯の家族の人数は多い。収入はガクガクと減り、家族の人数は多い。御家人、つまり鎌倉幕府に従う武士の経済状況は悪化の一途をたどった。

 

分割相続は御家人の家の経済状況を悪化させた。

 

これを教訓にすると、相続制度をどう変えれば良いか。

 

一人が単独で相続すれば良い。

 

一人って誰。それは能力がある者よ。それだったら誰も文句は言わない。

 

鎌倉末期から室町にかけて惣領単独相続となる。惣領とは家督を相続する予定の人のことよ。

 

これにて一件落着🎉👏

 

 

 

とはならない😨。

 

誰が家督を継ぐのかということで争いになった。

 

それが天皇家を分裂させ(南北朝)、将軍家や守護大名家を分断した。

 

相続争いの最たるものが応仁の乱から始まる戦国時代よ。

 

家族同士での殺し合いは当たり前。伊達家は政宗はライバルである弟を殺し、弟を溺愛し正宗を殺そうとした母親は追放された。織田信長も弟と争い、弟を殺している。武田信玄は自分を追い落とそうとした父を逆に追放した。

 

そんな例を挙げていったらキリがないわ😱。

 

争いは何故起きる。それは惣領の基準がないからだ。だったら決めれば良い。幼くても頭が悪くても、どんな子どもであっても、長男に後を継がせる。長子単独相続となる。

 

男女差別かしら🤔。

 

いや、争いをなくす知恵よね。

 

それで、江戸時代は大きな内乱がなく平和だったとも言われる。

 

さて、長々と相続史を書いてきたけれど、清洲会議をしていたときは、まだ天下は定まっていない。

 

主君織田信長の仇である明智光秀を実質倒したのは秀吉だ。それに本能寺の変で稀代のカリスマ織田信長も、その織田信長から家督を譲られた長男織田信忠も殺されている。成人した後継者候補として残ったのは信長の次男でアホの信雄と、信雄と競べれば少しはましな信孝でる。

 

織田家の内輪の視点に立てば、家督は信雄か信孝が継ぐのだろう。それが常識だ。

 

信雄を推す者がいなかったことからしても、彼の器量がないことは推測できる。

 

次男に器量がないから柴田勝家は三男信孝を推した。それに信長の妹であるお市は勝家と結婚した。織田家は柴田勝家を支持したということだ。だから、織田家の忠臣という観点からしたら、柴田勝家に軍配が上がる。

 

しかし、信長がやろうとした事業の後継者という観点からしたら、信孝ではダメだ。彼には天下布武の器量がない。だったら、我らで、いや俺が、となったのが秀吉であろう。

 

主君を幼い子どもにして、自分が操るという政治スタイルは、日本の得意芸。

 

摂関政治、院政、執権政治はそういう政治スタイルだ。

 

幼子に権威を持たせる。権威とは従う正当性だ。それは血筋である。王は血筋が良ければよい。

 

権力は他の者が握る。ここでは卑賎の出の秀吉が握った。

 

時流は秀吉にある。

 

主君の仇を素早く討った。

主君の直系の幼子を立てた。

そして、天下布武の亡君の意志を継ぐ。

 

大義名分は秀吉にはある。

 

秀吉は、信孝の母親と信孝の娘を、信孝が裏切ったということで磔にして殺した。言い換えると亡君の妻と孫を殺したのよ。それも本能寺の変から1年もせずに。これまで主君の妻と孫として崇めていた女性を、主君が死んで1年足らずで磔にして殺すなんて😱。そして亡君の子どもである信孝を信雄名義で切腹させ、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝ち、秀吉の織田家乗っとり計画は達成された。

 

この秀吉という勝ち猿、いや勝ち馬にみんなこぞって乗った。

 

こういう集団って烏合の衆なのよね😅。

 

秀吉に、子飼いの家臣はいるが、譜代(代々仕えている家臣)はいない。

 

いなくても当然よね🤔。だって最下層の身分出身なんだもの。民主主義の今だって、血筋をとやかくいう人たちもいる。当時の身分差別は常識だった。

 

その点は、漢帝国を作った農民出身の劉邦も同じ。屠殺業の樊噲や幼馴染みの盧綰を引き連れ、秦帝国を倒し、覇王項羽を滅ぼし、漢帝国を打ち立てた。

 

最下層の身分出身であることは秀吉も劉邦も同じ。劉邦の父親の名は劉大公、母親の名は劉媼。

 

「邦」って「兄ちゃん』、「大公」って「じいさん」、「媼」って「婆さん」という意味よ。

 

だから、漢の高祖はその名を「劉にいちゃん」で父親の名は「劉じいさん」で、母親の名は「劉ばあさん」である🤣。

 

つまり、名前が明らかでないのよ。劉邦も秀吉と同じようにどこの誰だか分からないが、素性の知れない男だった。

 

劉邦と秀吉の共通点は、どちらも素性の知れない身分の低い男であるということだ。

 

それに2人とも62歳で死んでいる。加えて天下統一後8年で死んでいるのよ😨。奇遇ね。

 

しかし、一方は400年続く漢帝国を作り、子孫もたくさんいる。もう一方は、天下統一後10年足らずで政権を失い、30年もせず一族が滅びた。

 

この違いは何だろう❓🤔。

 

いや、こんなに似ているのに、結果が大きく異なるのはなぜ❓🙄。

 

2人の生涯を簡単にまとめると、「最下層から子飼いの子分を引き連れてのしあがり、天下を統一して8年で62年の生涯を閉じた」と書けちゃうのよね。

 

その結果が大きく違う要因の1つは跡取りがいたかどうかよね🤔。

 

2つ目は、権威があったかどうか。

 

劉邦の場合は、権威となる周王朝はなく、各地の王も前政権である秦によって全て滅ぼされた。楚の国の貴族出身の項羽と覇を争ったが、項羽だって落ちつぶれた貴族よ。劉邦は自分に従いそうもない奴を粛清していった。

 

秀吉の場合は、絶対的な権威を持つ天皇がいる。それに、彼は一地方の田舎大名である織田信長の部下。織田信長の死後は、同僚や元上司を倒さねばならぬ。彼らを倒し従えても、さらには島津、長宗我部、毛利、上杉、北条、伊達、徳川、それに元主である織田を倒し従わせなくてはならない。元上司も同僚も、そして他氏にいたっては全く豊臣氏に心服していない。心の中では「この猿が」とバカにしていただろう。

 

天下統一後、その心の中でバカにしている奴等を粛清できなかったのが秀吉の敗因だろう。心の中で「この猿が」とバカにしている奴等を粛清できず、自分の一族を粛清し、唐入(朝鮮出兵)という海外侵出を図った。

 

秀吉のカリスマ性のみに頼り、政治機構を造ることを怠った。晩年、五大老(議決機関)、五奉行(行政機関)などを作ったが、付け焼き刃で突貫工事のようなものよ。跡継ぎもなく、寄せ集めで、突貫工事のような政権じゃ、持たないわなぁ🤔。

 

選挙のない時代に、徳川氏という野党(政権をとって変わる存在)を残さざるを得なかったのも敗因だなぁ🙄。

 

その点についてはまたの機会に👋😄