つれづれなるままに

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新つれづれなるままに歴史を語る「日本の近現代史」敗戦の原因を考える~その1~

久しぶりに「つれづれなるままに歴史を語る(つれ歴)」を書くわ。ホント久しぶりの再開よ😉✨。

 

「つれ歴」として歴史を語るのは、約1年ぶりなのよ。あんまり人気のないシリーズだったんだけれどね😅。

 

再開第1回目。近現代史編。

~敗戦の原因を考える🤔~

 

何か大きく出たわね~😎。

大きなテーマよ😅。

敗戦の原因を考えるって。原因はたくさんあるわ。マクロ的な視点で考えてみたいわ😄。

素人オヤジのブログなので、間違いがあったら指摘してね🙇。

 

①ある出来事の原因や背景を探るには

 

結果として、1868年から始まった明治維新による政権は1945年をもって破綻したと私は考える🤔

 

1868年

明治維新(開始)

コーエー定番シリーズ 維新の嵐

→懐かしい~ゲーム😳

 

1945年

敗戦

太平洋戦争全史 緒戦の勝利と敗北への道程

 

明治維新から77年で敗戦かぁ🙄。

 

そして2020年は、戦後75年。ということは、明治維新が作った政府が続いた時間とほぼ同じ時間が敗戦後経ったということだ🤔。

 

明治の前の時代である江戸時代に照らし合わせてみる。

 

1600年

関ヶ原の戦い

 

 

1603年

徳川家康 征夷大将軍に

 

1605年

家康が秀忠に征夷大将軍を譲る

 

1614年

大阪冬の陣

 

1615年

大阪夏の陣

 

江戸時代は1603年に徳川家康が征夷大将軍に就任した年から始まるとされる。征夷大将軍の就任は、朝廷から政治の権限を与えられたことを意味する。だから、形式的には、この年から江戸時代が始まったとして良いだろう🤔。

 

しかし、まだ前政権を担当した一族が、大阪に残っている。それが豊臣氏よ☝️😄。そして、その豊臣氏に心の中で臣従している大名も多かった。「徳川氏は豊臣氏の家臣である」と豊臣氏も考えたいたから、徳川氏が政権を取ったとしても世情は不安定なのよ。感覚的にはまだ戦国時代が続いているのよね🙄。

 

だって、1日もかからなかった関ヶ原の戦いで、世の中の人が「あぁ、戦国時代が終わった~」って思いようがない。

 

それを考えると敗戦前後の日本人って凄いよね。国体が180度変わったことをすぐに受け入れるんだから。「国民国家」というものの検証も必要かしら🤔。それをすると、話がさらに横道にそれるぞ😅。やめよう。

 

秀吉は最下層から一気に最上階の身分にかけ上がった、実力で成り上がった体現者よ。徳川家康だって元々地方の弱小領主。代々仕える家臣はいるが、代々仕える大名(譜代大名)はいない。それに徳川氏は実力があるが、戦国時代の大名としては、島津氏とも毛利氏とも伊達氏とも、いや、他の戦国大名と同格よ。

同格は言い過ぎかしら🤔。いや、島津氏は源頼朝の血を引く家系としているから、徳川氏よりかなり上の格ともいえる😄。だから関ヶ原の戦い後、徳川家康は譜代大名を作らなければならなかった。

 

前政権の担当者が存在するのは、現政権には目の上のたんこぶなのよね😅。だって次期アメリカ大統領バイデンさんにとって、現アメリカ大統領トランプさんは目の上のこぶでしょ。民主主義でなかったら、前政権担当者は殺されるか牢獄の中だわ。選挙って戦争なのよね🙄。

 

豊臣政権って、戦国時代の大名の連合政権という体質を持っている。その前政権の担当者を一掃したのが「大阪夏の陣」と考えると、安土桃山、いや、戦国時代が終わったのは「大阪夏の陣」であるとも解釈できるのよ☝️😄。

 

大坂の陣が終わり、豊臣氏を滅ぼした直後、徳川家康は「禁中並公家諸法度」「武家諸法度」「諸宗本山本寺諸法度」などを公布し、元号を慶長から「元和」と改めた。そして家康は「元和偃武(えんぶ)」を宣言した。

 

元和偃武とは「和を元(はじめ)、「武を偃(や)める」という意味なのよ。応仁の乱(1467)以来、約150年間続いた戦国の世が終わったという平和宣言だ。

 

しかし、それで戦国の気風がなくなったわけではない。世の中は浪人(失業軍人・失業武士)や気の荒いやくざものがたくさんいた。

 

三代将軍徳川家光は、将軍就任時に、関ヶ原の戦い後徳川氏に従った仮想敵国である全国の外様大名を前にして

 

「自分は生まれながらの将軍である。大名は今後私に臣下の礼を取るべきだ。異論がある者はすぐに国に帰り、戦の準備を始めろ」

と恫喝した😨。

 

意訳すると、家光は「俺はてめーらとは格が違うんだぜ。かかってこい。捻り潰してやるわ。」と言ったってことね😅。

 

つまり、彼の治世は、まだ、力で相手を捻り潰すという気風があったと考えられる。その気風がなくなるのは、四代将軍家綱が幼いのを目につけて、改易(取り潰)された大名に従っていた家臣たちを救済しようと幕府の転覆を図った由井正雪の乱以後となる。

 

徳川綱吉の生類憐れみの令という極端な動物愛護、命重視の法令とその違反者への厳罰で、戦国の命軽視の気風がなくなった。その綱吉の治世は1680~1709年。

 

つまり、戦国の気風がなくなったのは、江戸幕府開府106年後であり、豊臣氏滅亡(元和偃武宣言)94年後といえるわ。

 

近現代史を語るのに、なぜ、こんな時代の異なる、戦国の気風がなくなる江戸時代のことを話したのか😄。

 

それは、その国の国民性や常識は一朝一夕で変わるものではないというとなのよ。

 

敗戦の1945年を境に、日本の国体が変わった。

 

国体とは、国の根本体制のことよ。日本は戦前は天皇を国家元首であり主権者とした。戦後は国民が主権者となり、天皇は象徴となった。国家体制が180度変わったのに、日本人はそれを受け入れた。受け入れたというよりも、私は歓迎したと考える😄。180度主義主張が変わっても、国民は抵抗なく受け入れるものが日本人の中にあったとも考える。

 

天皇って、自ら政治を行うのは稀で、象徴的であることの方が自然なのよね🤔。

 

だって自ら政治を行った天皇って、天武天皇、桓武天皇、宇多天皇、醍醐天皇、村上天皇、後三条天皇、後醍醐天皇ぐらいじゃないかなぁ🤔。

 

そうか😄。

調べてみたら、南朝の天皇が3名いらっしゃった。126代の天皇のうち、実在が不明の8人を抜かすと119代。その中で、天皇親政を行ったのは10名ということよ。その10名以外は象徴に近かった。

 

明治天皇や大正天皇、そして戦前の昭和天皇は主権者であったが、その主権を自由に行使できなかった。天皇を隠れ蓑にして、薩長や政府や軍部の思うがままの政治を行ったと言って良いのかもしれないわね🤔。

 

1945年の日本の敗戦の原因の原因を考えるには10年~20年の短いスパンの直接的原因と、その原因が発生した原因となる背景も追究するのが大切なのよね。

 

全く専門家ではないが、ミクロとマクロを織り混ぜて、まとまりなく話していくわね。興味があったら、「新つれづれなるままに歴史を語る」をよろしくね😉✨。

 

次回は「②統帥権の干犯問題」よ。