つれづれなるままに

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入試に出る外交史

外交史では、中国との外交を理解することが大切よ👨‍🏫。今回は、「漢」から「元」までの外交をざっくりと、高校入試で出るところを押さえながら解説するわね😄。でも、授業じゃないから、マニアックなところも盛り込むよ😉✨

 

(1)「漢」~「元」で一区切りにした理由

中国の中華思想における冊封体制とその一時崩壊で一区切りできるからよ😉✨。

中華思想とは、中華の天子が世界の中心であり、その文化・思想が神聖なものであるという思想のことなの。そして、周辺地域の首長はその中華の天子に臣従し、国王やとして認めてもらい爵位や称号をもらい、その返礼として貢ぎ物(朝貢)を持った使節を送るのが冊封体制よ☝️😄。

 

 

(2)漢~南宋

後漢 ↔️奴国(金印「漢委奴国王」)

魏    ↔️邪馬台国(「親魏倭王」)

南宋↔️倭の五王(武は雄略天皇)

 

□冊封体制の理解が問われる

中国皇帝が中国周辺の首長に対して爵位や称号などを与えて、中国が周辺諸国を臣下とする外交を冊封体制と言う。中国に朝貢する等の義務がある。周辺諸国こメリットとしては皇帝にその国の支配者として承認されて自国内や近隣諸国に優越的な権威を持てたことが挙げられる。

 

(入試問題)

倭の五王に関しては、「中国の皇帝に、朝鮮半島の南部の支配権を認めてもらうのが目的だった」という解答が求められた。

 

 

(3)隋~唐

隋   ↔️遣隋使

唐   ↔️遣唐使

 

□朝貢の理解が大切

朝貢とは貢ぎ物を献上すること。ざっくり言うと、子分の親分への献上品。中国皇帝の朝礼に、使者が貢ぎ物を(お土産)を持っていったことが由来だそうだ。お土産をもらった親分は、親分としての見栄から、「よしよし、手ぶらで帰してはワシの沽券に関わる。」と言って、朝貢品の何十倍の手土産を持たせた。だから、朝貢した側は、経済的に大きなメリットがある。遣隋使、遣唐使ともに貿易としての面がある。聖徳太子は「朝貢するけれど、臣下にはならない」と言うことで、あの有名な「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」という国書を隋の皇帝に渡した。

 

(入試問題)

①聖徳太子は、中国との関係を主従関係から対等な関係にしようとした。(冊封体制からの独立)

 

②大化の改新では、唐の進んだ制度や考えを学んだ留学生や留学僧が活躍した。

 

③聖武天皇の頃の天平文化は、シルクロードを通って、インドやペルシャ、せして唐の文化の影響を受けた国際色豊かなものだった。

 

④桓武天皇の時代、遣唐使船に公的乗り込んだのは最澄、私的には空海であった。最澄は天台宗を開き比叡山延暦寺を建てた。この寺は、仏教の総合大学としての面があり、後年、鎌倉仏教の開祖たちも学んでいる。空海は天台宗を開き、高野山金剛峯寺を建てた。

 

⑤894年、菅原道真の建言で遣唐使が廃止され、その後、文化が国風化した。

 

 

(4)宋~元

宋↔️   平氏政権(平清盛)

元↔️   鎌倉幕府(北条時宗)

□冊封体制が崩壊した時代であることを理解する

五胡十六国を制した「宋」は力が弱く、近隣国との関係は、宋と対等、もしくは宋が臣下の礼を取らなくてはならなくなった。元は「漢民族ではない民族」が打ち立てた国である。この時代、他国民に中国が侵略され、中華思想という漢民族のプライドが大きく傷つけられた時代なの😄。この時代背景を踏まえると、朱子学の理解となり、その影響が強い人々の行動原理が理解できるよ👨‍🏫。今回は外交史なので、これ以上踏み込まないよ😅。

 

(入試問題)

□元寇が鎌倉幕府に与えた影響が出題される。幕府を支えていた御家人は、分割相続によって経済基盤が弱くなっていた。それに加えて、元寇という外国の侵略があり、それを防ぐのに戦費がかかった。防衛戦争だったため、新たな土地も何も得ることもなく、幕府は恩賞を与えることができなかった。戦費がかかったのに期待した恩賞がもらえなかった御家人の経済力はさらに衰え、幕府に対する不満が大きくなった。

 

(5)終わりに

反響があったら、この続きを書きます🎵

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