つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

「セクハラですよ」と言われちゃった😱

教室で「バタン❗️」という物を落とした音がして、「キャッ❗️」という主婦講師の声がした😌。その教室を覗きこんで、私は「か弱い悲鳴が聞こえたので」と言ったら、その主婦講師に「それ、セクハラですよ。」と言われたの😱。普段、気安く会話をしている方だったので、この言葉にはショックだった😣。

 

「~ハラ」と安易に使うことも私は「ハラスメント」だと考えるの🤔。これを「『ハラスメント』ハラスメント」と名付けよう☝️😎。略して「ハラハラ」😁。

 

「か弱い」が蛇足だったんだろうなぁ🤔。でも、この発言をセクハラとするなら安易に「セクハラ」を使いすぎてはいないかなぁとも思ったのよ。しかし、「『安易にセクハラを使いすぎている』という発想」自体、このご時世では非難されるものなんだろうなぁ🤔。でもね、物凄い悲鳴がして、「どうしたの❗️❓物凄い悲鳴を出して❗️」と言ったら、これはセクハラにならないよね。どうしてだろう🤔

 

今回のケースを心理的に分析してみた。

 

(1)形容は主観語

「ギャ~❗️❗️」とか「グワー❗️」という悲鳴に対して、「か弱い」という形容を使ったら、それはおかしいと考える😅。「キャッ」という、か弱い悲鳴だったから、「か弱い悲鳴」と言ったのよ。でも、その悲鳴が「か弱い」か「か弱くない」かは、発言者の主観だろう🤔。

 

そうか❗️☝️😄。

形容って、主観なんだろうなぁ。

 

「大きな」木🌳

でも、他の人から見たら、さほど大きくないかもしれない。

 

「綺麗な」花🌹

でも、他の人から見たら、さほど綺麗ではないかもしれない。

 

「赤い」屋根

うん❓🤔

確かに障害で赤く見えなかったり、男女で赤の色合いが違かったりするが、これは概ね事実であろう😌

形容は、主観になることが多いとでも定義付けるか。

 

(2)心理からのアプローチ

次に「か弱い」と発言した者と「セクハラだ」と言った者の心理を考える🤔。

 

①発言者の心理

「悲鳴が聞こえたので」と言えば良いところを、「か弱い悲鳴が聞こえたので」と言った。このときの状況は、私もとっさに言ったのよね。でも、そんなに心配もしていなかったことも事実😅。顔は笑顔だっただろう。悲鳴に「か弱い」を付けた時点で、そんなに心配していないことを暗に匂わせたのだろう。

今回の「か弱い悲鳴が聞こえたので」を彼女にセクハラと受け取られないように、かつ、私の意図をあの場で伝えようとすると、

「そんなに心配していませんが、悲鳴が聞こえたので、教室をちょっと覗いて見ました。」

となるだろう😓。でも、これを言われたら、私は嫌だなぁ😅。なんか心の機微に欠けている。

 

②「セクハラ」と受け取った者の心理

ズバリ簡潔に言うわよ☝️😎。

その言葉に「心の傷」を抱えている可能性が高い。

 

なぜか🤷‍♂️。

 

このケースでは「か弱い」と「悲鳴」という言葉自体にはセクハラの意味はない。例えば、「オッパイ」と「デカイ」には、前者はセクハラとなる言葉である。その言葉にどんな語彙を付けても、それはセクハラセンテンスとなる。でも、今回はどちらにもセクハラの意味はない。

 

「か弱い」はセクシャルな言葉じゃないよね❓😓。

 

その意味がないものに「セクハラ」と感じたのは、心の傷よ。

 

1.自分はか弱いと言われるような容姿でも年齢でもないのに言われたことに腹を立てた

 

2.女性を「か弱い」ものだと思っていることに嫌悪感を持った

 

3.「か弱い」は相手を見下した言葉なので私をバカにした

 

等々。つまり「嫌み」に受け取った可能性がある。ここに挙げたものは、全て「か弱い」ことに関して、何か経験があってできた信念だと言えると考える🤔。

ここで発言者が「そういうつもりで言ったのではない。」と言っても通用しないのよ。発言者の意図よりも、発言を受けた者の解釈が優先されるのが今の世の中😔。

 

(3)解釈が入りづらい会話を心がけると

私は、帰宅途中こんなツイートをした。

なるほどなぁ🤔

セクハラとならないためには、「形容」を極力削ぎ、事実のみを言うように心がけると言うことか🤔

勉強になった

なんか殺伐とした感じもするが😅

まぁお友だちではないんだし

職場だからなぁ

気を付けよう😅

 

そしたら相互フォローしている方から

実は「事実」が一番残酷なんですけどね。どんなに表面を取り繕うとも、傷つく人は傷つく。理屈で自分を守っているだけなんです。

と返信があった。

 

私は

形容した方がオブラートに包んだり、和ませたりする効果があると考えるんですけどね。形容は主観だから、色々な受け取り方をされてしまうんでしょうね😅

と返した。

 

そしたら

理屈を無視した議論は絶対にまとまらない。とは言え、理屈だけでは絶対に片付かない。人間には感情がありますから。思いやりだとか、惻隠だとか、本来理屈の世界では不要なもののはずがなぜ重要視されるのか、ってことですね。

と返信があった。

 

そう☝️😄

 

人と人との繋がりには、理屈も感情も大切。言い換えると理性と感情ね。

 

でも、この世の中は、「感情的な発言は控えろ」となる。いきすぎた感情は別よ。

 

「洋服が似合っているね。」

「髪の毛を切ったんだね。」

「そのバッグ良いね。」

「その髪型、カッコいいね。」

「休みは何をしているの?」

「あなたの趣味は?」

 

これらの発言は、全て受け取られ方次第では、アウトである。これもひどい話でね。若いハンサムさんが言うとセーフで、おじさんが言うとアウトになる。これもセクハラだよね😎。発言者によって受け取り方を変えているんだから。これを「オヤジハラスメント」と呼ぼう😁。略すと「オヤハラ」となり、よく分からなくなるね😅。「オジハラ」にしよう😎

 

こういう潤滑油となる会話を全て排除していったら、こんな会話だけが残ったよ。

「今日は良い天気ですね。」

「そうですね。明日は雨だそうですよ。」

「そうですか。アメリカの天気はどうなんでしょう。」

「知りませんね。あなたは?」

「知りません…。」

 

パワハラ、セクハラ、モラハラ、スメハラ、マタハラ…。許せないハラスメントも多いけれど、「か弱い悲鳴が聞こえたので」ぐらいは、ハラスメントと言ってほしくないなぁ~、普段は気軽に言い合っているのだから、と言うのが、世の中では甘えと言われるのだろう😅。

 

まぁ、少なくとも使う言葉を気を付けよう。

でも、ホント疲れる😣💦⤵️

 

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。(夏目漱石)