つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

自由とは何か、思い付くままに考えてみた🤔

風に吹かれて流れる雲も、風によって行き先を決められているんだから、自由ではない☁️🍃。

 

野に咲く花々や木々も、その場所から自由に移動できるわけでもないわ🌷🌲。陽を沢山浴びようとしなけらばならないので、陽の光という制限がある☀️。

 

自由に空を羽ばたく鳥だって、自由なわけではない🦅。食べ物を獲なければ、死んでしまう。

 

ということは、世の中には自由などというものは存在しないのかもしれない🤔。

 

人の世の自由とは、その人が持つ力によって変化するものだ。

 

収入が100万円なら100万円の分だけ、1000万円であれば1000万円分だけの自由が得られる。

 

本当か❓🤔

収入が増えれば増えるほど、自由がなくなることも多い。朝から晩まで働いてやっと得た収入を次の収入の原資にすることだってありうる。年収1000万円稼いでいると豪語した知り合いは、仕事のつき合い費が追い付かなく、借金したと聞いた😨。

 

自由を得るには不労所得を得るしかないのだろうか🤔。

 

文化が栄えるのは、不労所得によってである。日々の生活に汲々としていたら、絵画や彫刻に時間を割くことなどできない。

 

では、自由とは何だろうか❓🤔。

 

それは、満足度かのかもしれないなぁ🙄。

 

どんなに仕事に追われても、その仕事に満足していたら「俺は自由に仕事をしている」と感じるだろう🙄。

 

自分の性に満足していたら、それは男であっても女であっても、LGBTQであっても自由だと感じるかもしれない🤔。

 

自分のコンプレックスや障害に納得して人生を満足できるのならば、その人は自由なのかもしれない。

 

自分の存在に満足できることが自由の前提であるならば、自由を得るには多様な社会でなければならないのだろう😔。

 

 

でも、多様性とわがままって紙一重なのよね🤔。

 

母である前に、私は女よ。女である前に一人の人間よ。

 

この例だけだと、問題にされる風潮なので、もうひとつ加えておくわね😌。

 

父である前に、俺は男だ。男である前に、一人の人間だ。

 

この2つの意見はどう思う。状況によってその是非は変わるだろうが🤔。

 

まず、両者ともに、父、母という役割を投げ捨てているのよね😔。「母である前に私は女よ」とか、「父である前に俺は男だ」と主張するということは、父とか母という後天的な役割よりも、動物としての本能の方を優先している。後天的なものより、先天的なものを優先し、理性で考えるのがリベラルなのかしら🤔。

 

私は、次のように問い返す。

 

「母親である前に私は一人の女であるのではなく、あなたは一人の女であり、母なのです。そこに優劣はないが、子どもにとっては一人だけの母親なのではないでしょうか。」と。

 

男の場合もそのように問い返すが、どうもね、男性の発言が、性欲に関係しているように感じるのは私だけであろうか😌。ただなぁ、この発言をする人は、相当追い詰められている可能性が高いからなぁ🤔。私の問い返した理屈は心に響かないだろう。

 

男性でも女性でも、「父(母)である前に男(女)である」という発言自体は確かに理屈が通っている。しかし、親になった以上は、少なくとも子どもが成人するまでは親としての制約があるのは当然じゃないかなぁ🤔。

 

「妻である前に一人の女よ。」

「夫である前に一人の男だ。」

あまり男性では聞かないかなぁ🙄。

 

妻として見る前に女性としてみなさいということかしら🙄。こういう発言って、ジェンダーレスとかジェンダーフリーの観点からするとどうなのかしら🤔。

 

「女性としてみろ」という発言の根底には「女性らしさ」がある。しかし、ジェンダーを問題にしている人たちは、その「らしさ」を問題にしているのよね🤔。

 

と、浅はかな私は思ってしまうのよ😌。

 

人は「らしさ」に安心する。

 

子どもが子どもらしければ安心し、大人びていたら不安になる。

 

例えば、子どもが大人顔負けに歌が上手いというだけでテレビ番組になるのは、「子どもらしさ」の裏返しなのよ。つまり、「子どもらしさ」という暗黙の了解がなければ、大人びた子どもが話題とならない。

 

多様性は、主観や先入観の否定ではないと思うわ😄。主観や先入観があり、それを理性で克服するものであろう。お互いに認め合うのが多様性ね。

 

車椅子の方が鉄道会社に乗車拒否されたというブログが炎上しているという。以前、こちらのブログで少し言及したわ👋😔

確かに障害がある人も、健常者と同じようになんの気兼ねもせず施設を利用できた方が良い。しかし、そうではない社会が現実としてある。その中で手を尽くした方々に感謝の気持ちに欠けるのは良くないなぁと思うのよ🙄。刺々しいというかね😣。

 

それに、鉄道会社に怒りの矛先を向けるのではなく、いまだに階段を昇り降りできる車椅子を開発しないメーカーに怒りを向けても良いわけで🙄。

 

感謝という意味では、眞子さまのフィアンセの小室圭さんにもないなぁ😣。お金を借りたにせよ贈与されたにせよ、困っているときに助けてくれたという感謝に欠けている。

 

自由に思うか思わないかは満足度によって変わるのではないかと指摘した。

 

自由の前提は多様性であると指摘した。

 

自由を得るには感謝の心も大切なのかもしれないなぁ。感謝の心を持てば、自分の存在に満足し、自分が今やっていることが自由であると感じるのであろう。

 

逆に不自由とは不満から生まれる。

 

お互いに不満を持たないためには、お互いに認め合う心と、社会にしていかなくてはならないのだろう。

 

私の身近なことであれば

妻が妻であることに感謝、子どもがチューであるのとに感謝、課題のあるチューを育てられる社会であることに感謝した上で、欠けたところは指摘して直してもらうということが大切なのかも。

 

自分のために動いてくれた人までも社会の一部と考える人が、自分のために動いてくれた人たちに対する感謝の気持ちが欠けてしまうのかもしれななぁ🙄。

 

理性で社会を変えることができると考える人は、その傾向があるのような気がするわ。

 

しかし伝統やこれまでの仕組みを重視する人は、感謝の情けといった人情を悪用するのかも。会社を家族と見立てるブラック企業は、国を家族と見立てた戦前の日本に似ている。

 

う~ん🤔。上手く考えが纏まらない😅。

 

でも、考えていくうちに、現時点での結論が浮かんできたわ😄

 

自由な社会って、「自分に都合の良い社会」ということなのかも🤔。