結構辛辣だと思うんだけれど😌~森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に甘いかしら🤔~
先日のブログがこちら👋😄
このブログの内容は、森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に甘かったかしら🤔。
全然甘くない👋😅。
いや、厳しいと思うんだけれど。まぁ、甘いと思われるのなら、それはそれで良いんだけれどね😌。
私のブログは「おねぇ調」の文体だから、かなりマイルドになっているのよね。
「快・不快」の問題じゃないのよ。森さんの発言は😔。彼の思考回路の問題なのよね。
「森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の発言を考える🤔~快・不快の問題なの❓🙄~ - つれづれなるままに」より
これを言い換えると、
「感情の問題」ではない。森さんのオツム(頭)の問題だ。
となるのよ😌。これって結構辛辣よね😅。
その感情や飛躍した考えをおさえて、公の場で振る舞うのが理性なのよね。だから森さんは理性に欠けた人という見方もできるかも🙄。
「森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の発言を考える🤔~快・不快の問題なの❓🙄~ - つれづれなるままに」より
これもマイルドに見えるけれど、「理性に欠けた人」、つまり「人間性の問題だ」とも解釈できるのよ😌。だって理性って人間性だから。ここでも細心の注意を払って、「解釈できる」という表現を使っているが😎。
そういう偏見を持った人は、政治家やオリンピックの運営のボスには不適格なんじゃないかしら🤔。
「森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の発言を考える🤔~快・不快の問題なの❓🙄~ - つれづれなるままに」より
これも「なんじゃないかしら」と疑問の形をとっているけれど、疑問の形をした断定の文よね。でも、これを「不適格だ」と断定してしまうと、それを不愉快に思う人もいるのよ😌。
それに私は、森さんの「女性蔑視の発言」を、快不快の感情の問題にしないで、「理念」の問題であるとしている。これって結構森さんに対してきつい発言よね。
「世界の女性の敵になった」とか「女性差別」というものの見方は、私に言わせれば、まだまだ視点が「性」にとどまっている。あの発言は、多様性と男女平等の観点からすると、「女性の敵」ではなく、「人類の抵抗勢力」と私は考えるのよ。少なくとも五輪の理念には反する。
組織の理念に反する者をその組織のトップに据えてはいけないわよね。だって組織を人間に例えたら、組織の脳みそ(理念)と、その組織を組織する人の脳みそ(理念)が違うのよ。組織が多重人格者になってしまうわ。その組織は解離性同一性障害となる。だから森さんは森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長には不適格である。
確かに、付き合えば楽しい方なのであろう。人脈作りも上手く、その組織をスムーズに運営できるのであろう。でも、その運営者の理念と組織の理念が異なれば、運営者は解任されるべきなんじゃないかしら🤔。それとも運営者が理念を変えないといけない。
だから彼は次のように謝罪すべきだと私は考えたのよ。
「東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の長として、最もオリンピックの理念に賛同しなくてはならない立場の私が、このような理念に反する発言を公の場でしたことを深く反省し、謝罪いたします。心を入れ換え、職責を全うして参ります。」
「森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の発言を考える🤔~快・不快の問題なの❓🙄~ - つれづれなるままに」より
これは彼の理念というか、彼がこれまで80年の間で形成してきた考えを変えろという厳しいものではないかしら🤔。信念を変えることを表明しろということだもの。大袈裟に言うと、「改宗」を求めているのよ😔。そんなことができないから、お粗末な逆ギレ会見をしたのよね、あの人。会見で逆ギレをする人を日本の顔にしているのよ。
「彼がこのままでいると恥ずかしいから辞めろ」という意見がある。でも、恥ずかしいか恥ずかしくないかは感情の問題なのよ。「快不快の問題にするな」と私は主張した。「恥ずかしい、恥ずかしくない」という問題に矮小化するなとも言いたい。
恥ずかしく思うのはその人の勝手よ。「恥ずかしいから辞めろ」ではなく、「不適格だから辞めろ」なのよね🤔