つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

池袋暴走事故裁判・飯塚幸三被告の証言を分析する🤔

被害者や遺族の方々に対して、心からお悔やみ申し上げます。

 

いや~、怖い。

チューと散歩するとき、私はかなり交通事故を意識している。端を通る、信号が点滅したら横断歩道を横断しない。右左折の自動車に気を付ける。

 

かなり口うるさいかもしれない。

 

この度、被害に遭って子どもとともにお亡くなりになった母親は、普通に青信号の横断歩道を渡っていただけよ。怪我した方々も交通規則を守って横断していただけなのよ。

 

とはいえ、世間には飯塚被告が裁判で罪を認め、真摯に謝罪するのではないかという淡い期待もあった。しかし、初公判では無罪を主張。罪状認否では、遺族への謝罪を述べたうえで「アクセルペダルを踏み続けた記憶はない。車に何らかの異常が起きて暴走した。暴走を止められなかった」と主張し、起訴事実を否認した。

 この日の冒頭陳述で、検察側は「事故前の車の定期点検ではブレーキやアクセルに異常が見つかっていなかった」と述べており、「自動車の瑕疵(かし)」をめぐって真っ向から対立の様相を見せている。

池袋暴走「無罪」主張の衝撃 (AERA dot.) - auヘッドライン - auサービスTOP https://news.headlines.auone.jp/stories/topics/story/13800178?genreid=1&subgenreid=3&articleid=13800178&cpid=10130043&rf=passtop_%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9

 

いや~😱。

飯塚被告は足が不自由だそうだ。

 

「自分の足が不自由なことを棚にあげて、よくもこんなことが言えたものだ。」と言っても仕方がない。足が不自由でも運転できる車を作るのは技術者に任せて、足が不自由な人用の車に彼が乗っていなかったことは事実である。

 

さて、私から見ても、彼の主張には無理がある。しかし、無理がある主張を彼がしていることも事実である。ということは、その彼の主張には、彼なりの思考が働いている😔。

 

本当は、こんな主張は理屈など考えず絶句すれば良い😡。

 

しかし、そういう多くの人が驚くような非常識な思考をする人もいるわけで。そういう人の思考を検証するのは、私は大切なことだと考える。そして、「本当に彼は非常識なのか」という、自分や世間の常識を疑うことも第三者には大切なことだと思う😔。当事者はそんな考えになれないし、私が当事者であってもなれないわ。

 

このネットニースが正しいということを前提にして考えるわね。

 

みなさんは、この発言のどこに注目するかしら🤔。

「アクセルペダルを踏み続けた記憶はない。車に何らかの異常が起きて暴走した。暴走を止められなかった。」

私が注目したフレーズを2文節で答えてみてね。

 

 

 

 

 

それは「記憶はない」という言葉よ。

 

政治の世界で「記憶にございません」ってよく聞くわよね。

 

最近だとモリカケ問題の答弁だったかしら🤔。

「加計学園問題」で追及を受けた政府側関係者たちが「記憶にない」「記録がない」という曖昧な回答を連発したわよね。

 

「記憶にございません。」

 

「記録にございません。」

 

「記録にあったら墨を塗って提出します。」

 

「記録にあったらシュレッダーにかけます。そして『それは障害者枠で採用した職員がしたことだ』と公にします。」

 

「記録にあったら改竄します。」

 

 

ということを政治の世界では、国民は結局は許してきた。政治家や官僚の「記憶にございません」を許してきた。ほら、飯塚被告は元高級官僚よ。そんな主張はお手のものなのよ😣。

 

今は係争中だから、安易なことは言えないわ。しかし、このくらいの憶測は許されるだろうか🤔。

 

彼は「アクセルペダルを踏み続けていない」とは言っていない。「アクセルペダルを踏み続けた記憶はない」と言っているのだ。

 

「踏み続けていない」と踏み続けたことを否定せず、あえて「記憶はない」と主張したところに私は注目する。

 

彼は元高級官僚である。

 

「記憶にございません」という言葉の、意味と意図は十分に理解しているだろう。

 

記憶にないだけだから、後日、記憶にないことが明るみになっても嘘をついたことにはならないという魔法の言葉。

 

記憶にあっても、自分に都合が悪ければ、記憶にないといっておけば良いという、とても都合の良い言葉。

 

「記憶にございません」という言葉は、どんなに黒でも灰色に変えることができる言葉である。そして、これまでこの言葉で追及を逃れた権力者は沢山いる。追及せずにうやむやにできるのが、この日本である。

 

なんて力のあるものに優しい国なのだろうか😥。

 

飯塚被告の「アクセスペダルを踏み続けた記憶がない」という言葉に、驚く必要はないんじゃないかしら。特に、モリカケや近畿財務局や桜を見る会に関して、「もう終わったことだから、追及するのは時間の無駄」と考える方々はね。

 

私は、力もない初老の男よ。何もできない。しかし、2つだけできる。それは「忘れない」ことと、ブログに書くこと。

 

ほら、自分とは関係のないと思って無関心でいてはならないのよ。政治の世界も、池袋での交通事故も、私は直接関係していない。しかし、巡りめぐって、私に直接関係してくるわ。

 

 

例えば、いじめの問題。

 

いじめた方が悪いのに、いじめられた方が悪く、いじめられて自殺したら負けなんていう風潮は、断固拒否しなくてはならない。自分が直接いじめられたわけでないが、いつ自分がいじめらるかわからないもの。

 

よくね。「いじめられる側にも問題がある」としたり顔でいう方がいる。そういう人は、いじめられる側の問題を「いじめ」という手段を使って解決しようとする方が問題だと理解していないのよね。いじめらる方に問題があるならば、いじめとは違う手段で解決しなくてはならない。

 

「記憶にございません」、「記録にございません」、「記録にございましたがシュレッダーにかけました」を許しちゃならないのよ。

 

と、語ってきたけれと、これは裁判中である。飯塚被告の罪は確定していない。無罪の可能性だってある。

 

でもね。彼の主張には無理があるのよ。論理的に。

 

①アクセルペダルを踏み続けた記憶はない。

②車に何らかの異常が起きて暴走した。

③暴走を止められなかった。

 

記憶がないのは、彼の中での事実であるとしておこう。

 

記憶にあっても「記憶にはない」と主張している可能性もあるのよ。

 

でも、彼の頭の中のことだから、「記憶がないこと」は事実であるとしておこう。

 

みなさんは、この私の理屈に納得していただけたかしら🤔。

 

言い直すわね。

 

「記憶の有無は飯塚被告の頭の中の問題だ」と言いたいのよ🤔。

 

だから、①から②への展開に大きな飛躍がある☝️😔。

 

①と②の関係は、①が原因で②が結果だ。

 

①と②を繋げると

アクセルペダルを踏み続けた記憶はないから(車に異常があるはずで)、車に何らかの異常が起きて暴走した。

となる。

 

アクセルペダルを踏み続けた記憶がないだけなんでしょ。であれば、アクセルを踏み続けた可能性を彼自身も否定していないじゃない。

 

自分の記憶がないのを前提に車に異常があったと言いきるところに、彼の不遜さが見られる。

 

「自分の記憶にはないことは現実には起きていない。」となれば、「自分に都合の悪いことは現実には起きていない」とすることもできるわよね。

 

そしたら、犯罪が横行するわよ😣。特に性犯罪。だって加害者は「記憶にはない」を連発すれば良いんだから。

 

でも、すでに政治の世界では「記憶にはない」が横行し、それで黒に近い灰色ですまされていることもあるんだよなぁ😨。

 

具体例を挙げれば近畿財務局職員の自殺。

 

いじめや過労死等もそうだよなぁ。

 

いや🤔。

記憶にないならば、ないことを主張すれば良い。それを躊躇ってはいけないのかも🙄。だから、飯塚被告は堂々と主張すれば良い。

 

「記憶にないということ」を主張できなくなれば、冤罪が起こる。

 

 

私が遺族だったら、彼の主張に腸が煮えくり返るだろう。彼がそう主張するなら、遺族側も検察側も客観的な証拠と調査結果を出して、徹底的に追及しなくてはならない。

 

そして、徹底的に追及することは、この池袋暴走事故だけではなく、いじめも、スポーツ会でのパワハラも、モリカケも、桜を見る会も同じなのよ。野党が桜を見る会の不正疑惑を追及しているときに「国会は他に大切なことがあるだろう」とか「時間の無駄」と言って野党の足を引っ張る者もいたわ。そういう不正に対する追及をうやむやにする風潮は、自分の首を絞めることになる。

 

飯塚被告に対する追及も徹底的にする。いじめや不正も徹底的に追及する。

 

その追及するものを応援することはあっても、足を引っ張ることはしてはならない。

 

飯塚被告は有罪になっても、遺族が求めるレベルの反省はしないだろう。だって、どんなに証拠を並べられても、彼にはアクセルペダルを踏んだ記憶がないという認識なのだから😣。有罪になりそうだったら、今度は認知で責任能力を争うかもしれないわ😨。

 

飯塚被告の主張に沿った上で、飯塚被告が謝罪するなら、こう言えば良かったのよ。

 

「私の運転している自動車の事故で死にいたらしめたり大怪我をさせたりしてしまい、被害者や遺族の方々、そして関係者の方々には変申し訳なく思います。私は、アクセルペダルを踏み続けた記憶がございません。突然の出来事に、その場の記憶がなくなった可能性もありますが、自動車に不具合があった可能性もあります。自動車の不具合があった可能性も含めて裁判をしていただけたら幸いです。しかし、自動車の不具合があってもなくても、私の運転中に起きた事故です。深く深く謝罪します。」

 

彼の「自動車に異常があった」という主張に沿い、かつ、深く反省しているということを伝えるのなら、これがギリギリのところかなぁ🙄。

 

でも、整備不良だとしたら運転手の過失よね。彼はリコールするほどの瑕疵が自動車にあったと述べているのかしらね。

 

ホント痛ましい事故だった。

 

明日は我が身よ。

こういう事故は、他人事ではない。それは私が被害者にも加害者にもなりうるということだ。

 

再度、お亡くなりになった方々にお悔やみ申し上げます。また、被害者やその家族、そして遺族の方々の心のケアを心配しています。