つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

幸せになるには努力が必要❓~不幸せに見える人が目の前にいた場合、私は何をすれば良いのか~

バスの停留所でバスを待っていると、後ろから「クソババー❗️」という奇声が聞こえる。チラッと振り替えると、女性と、自転車をひいている老婆。親子なのだろう。

 

老婆はその声を意に介さずに彼女のあとを歩く。女性は意味不明の奇声を発しながら、私の後ろを通りすぎる。

 

徐々に私から離れて、100メートル先に言っても、彼女の奇声は聞こえる。そして傘を振り上げている。しかし、老母は平然と自転車をひきながら歩いている。

 

女性はすでに二十歳をこえているようにみえた。

 

彼女らがどんな関係なのかは知らない。ただ、私は母娘に見えたのよ。

 

あぁ、人は業を背負って生きている。

 

その業について書いたブログはこちら👋

う~ん…。

「幸せってやつは人それぞれ」

と考えるのは、なんか正しいようで正しくない。

 

二十歳をこえた娘が、公道で老母に「クソババー」と奇声を発して、傘を振り上げるのは、断じて幸せではない。母親は苦しかろう。本人も苦しかろう。

 

でも、その不幸せな状態を目の当たりにした私は、どうすることもできない。

 

見て見ぬふりをするのは、良くないことなのか。いや、良くないことであろう。しかし、私はそうするしかなかった。

 

私は課題のある子であるチューを育てるのに、色々なところに助けを求めた。今も求めている。

 

かなりお金もかかった。しかし、かけたお金以上の成果があったと思う。

 

チューに課題を乗り越えさせるためにしてきたことをまとめたブログがこちら👋

 

そうだよ。

幸せはやってこない。自分が幸せを手繰りよせなくてはならない。自分が行動を起こさなければ、幸せにならないんだよ。きっと。

 

幸せな状態を維持するには、不断の努力が必要なんだ。平和と同じように。

 

この日、バス停で私の後ろを通り過ぎた親子が、自分達が幸せではないと思っていたら、自分達が、特にこの場合は母親が行動を起こさなくてはならないんだ。もうすでに起こしているかもしれない。であるならば、私が彼女たちを不幸せだと断定し、助けようとするのがおこがましいのかもしれない。

 

しかし、こういう傍観者の精神が、虐待とか自死、育児放棄とか、家庭内暴力などといった事件を起こすことになっているのかもしれない。

 

彼女たちと出会って考えさせられた。結論は出ない。