つれづれなるままに人物を語る④三国志編~さて誰について語ると思う😁~
歴史が苦手な人でも「三國志」という言葉はどこかで聞いたことがあるんじゃないかしら😄。西暦180辺りから260年頃の中国のお話よ。
「あぁ、知っている。」という多くの人は、羅漢中という作者の「三國志演義」という小説か、吉川英治の「三国志」という小説で知っているのだと思う🤔。それか横山光輝の大作マンガか、NHKの人形劇かもしれない😄。
私も持っているわよ~。全巻😎。
真実に最も近い三国志を知りたければ「正史三国志」となる。
三国志を知っている人は、三国志に出てくる武将の誰のファンかしら😄?
魏の建国した乱世の奸雄・治世の能臣「曹操」
漢の国を受け継ぎ蜀の国を作った義人「劉備」
呉の国を発展させた守成の3代目「孫権」
魏の帝位を奪う基礎を作った策士「司馬懿」
蜀の偉大な名宰相であり名軍師の「諸葛亮」
大国魏を赤壁の戦いで破った呉の智将「周瑜」
知性はないが三国志随一の猛将裏切りの「呂布」
怪力で曹操の親衛隊隊長「許褚」
劉備の義弟、桃園の誓い一騎当千の「関羽」と「張飛」
猛将関羽を破った呉の智将「呂蒙」と「陸遜」
挙げていったらきりがない。でも、こういうイメージは全て、小説「三國志演義」が元となっている。実際とは違うのよね🙄。でも、娯楽ならそれで良いのよ。楽しいもの😁。
皆さんは誰が好きかしら😄。
私は、三國志演義やマンガ、そして、ゲームのイメージで、大好きなのは趙雲なのよ😄。どんな人として描かれているか、気になった方は調べてみてね😉✨
と、今回は、そんな有名どころのお話しではないのよ。Wikipediaで調べれば出てくるけれど、超マイナーな武将よ😉✨
その名は「諸葛恪」。
あれ~、こんなマイナーな人物なのに、ネット変換すると変換できるぞ😅。
と思ってググったら、結構あったのよ。諸葛恪に関する記事やYouTubeが😌。Wikipediaを見たら、私が書きたかったことが全て載っていた。まぁ、そんなものよね~🤔、個人が持っている知識なんて😜。
簡単に彼について書くわね。
諸葛一族は、三国時代、魏・蜀・呉の三国で重臣となっていた。その中で、ちょ~有名なのは蜀の軍師「諸葛亮」。諸葛亮のお兄さんの子どもが諸葛恪よ。
諸葛恪の父(諸葛亮の兄)は諸葛瑾。彼は、他国から呉に移り住んだ。
呉ではよそ者ね。
そのよそ者が、誠実な仕事ぶりで周りの者や国王である孫権の信頼を勝ち得、大将軍まで上り詰めた。
風貌は、面長な美男子。気品があり、思慮深く、人々は奥ゆかしく寛容な彼に敬服していた。今風にいうと、イケメンの苦労人。性格がよく、多くの人から慕われていたということね😳。
その息子が諸葛恪。
彼の人物評は、「性格の悪いインテリ」😱。
父(諸葛瑾)や叔父(諸葛亮)や弟(諸葛融)は周りから人柄を讃えられた。しかし、彼は真逆😅。父である諸葛瑾には「頭が良すぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、家を潰すのもこの子だ。」と言われた。
父親として危なっかしかったのだろう。頭が良くて危なっかしいって😌。性格が悪いとは直接言っていないが、そう言うことだろう。
大将軍である陸遜からは「お前のその性格を何とかしろ」と叱られているそうだ😌。
まぁ、頭の良いことをひけらかすのよ。
幼い頃のエピソードを1つだけ紹介するわ😁
君主孫権に「お前の父と叔父と、どちらが偉いか?」と諸葛恪は尋ねられた。幼い子どもにそんなことをよく聞くわなぁ😅。孫権はどんな答えを予測していたのだろう❓🤔。当時も諸葛亮(叔父)の方がが評価が高かったのよね。意地悪な質問よ😅。
でも諸葛恪は即答した。「父にございます。」と。孫権がその理由を問うと、「仕えるべき主君を心得ておりますから。その点、叔父は目くらでした。」と答えたそうだ😌。
「目くら」は良い言葉ではないそうが、私が読んだ本にはそう書いてあった。 まぁ、高校生のときに読んだ本だが😔。
孫権は感心し、諸葛父子を称賛した。
これは尋ねられたから答えたのだが、父親からすると、彼は危なっかしいわね。私もこんな子どもがいたら危なっかしく思う。
「父と叔父、どちらが偉いか」と問われ、尋ねた君主を持ち上げるまでは良いだろう。「父でございます。それは呉王にお仕えしましたから。」ならよい。
「仕えるべき主君を心得ておりますから。その点、叔父は目くらでした。」は、言い過ぎ😥。幼い頃というのだから、まぁ、10歳前後かしら。叔父を貶めることはあるまい。
機転が利くのはよい。しかし、そこに驕りがあったようだ。
諸葛氏は、当時は三国で活躍している力のある氏族。諸葛恪の父、諸葛瑾は叩き上げで周りのも信頼を得て、出世した。諸葛恪はその2代目。周りからちやほやされながら育ったであろう。幼少の時から君主孫権からも評価を得ていた。血筋の良い頭の良い2代目。まぁ驕ってしまうわなぁ😅。
彼の父、諸葛瑾は、「その才気から、彼は一族を滅ぼす。」と嘆いたという。そして、それは的中した😱。
諸葛恪は50歳までとんとん拍子で出世した。孫権の死後、幼帝のもと呉国内で比類なき権勢を得た。国政を総覧することになった彼は、検察機関の廃止、負債の免除、物品税の廃止など人気取りの政策を実施し、国内の人気はうなぎのぼり。そして、攻めてきた魏軍を撃退した。
しかし、彼の運もここまで。
魏軍を倒し気を良くした彼は、周りの反対を押しきって、翌年、魏を攻めてきた大敗した。敗けの報告をすると、彼は怒り狂うので、将官は彼に報告しないようになったとも。その後、クーデターにあい、一族が滅ぼされた。政権を担って1年後のことである。
と、書いてきたが、私はこの諸葛恪は気になる人物だ。高校生のとき、この本を読んだのよ😄
ほらほら1988年の6月に刷られたものなのよ。
私が16才のときに買った本なのよ。こんな写真を載せても、古本屋で買ったと言われちゃうかもしれないけれど😌
この本を読んで、諸葛恪が気になったのよね。好きかと聞かれたら、はいとは答えないが、嫌いではない。そして、35年経った今でも気になる歴史上の人物なのよね~😅。
当時の私は、気になった理由を説明できないだろう。今振り返っても、当時の自分の気持ちを説明できない。
諸葛恪はいわゆる新興貴族の2代目。才気走り、鼻持ちのならない2枚目エリート。国王のおぼえめでたく、順調に出世した。周りのものは上司も部下も彼のことをよく思っていない人が多い。陸遜から「お前の性格どうにかしろ」なんて言われるぐらいだからなぁ🤔。
『三国志』の著者の陳寿はこのように評価している。
「諸葛恪は才気にあふれ、大きな展望をもって働く事ができ、国内の人々の賞賛を受けていたが、驕慢で狭量であった」と評している。Wikipedia
この本を初めて読んだ当時の私は、挫折していた。
中学生までは、自分でいうのも烏滸がましいが、神童だった。偏差値75。学年では400人いて3番だった。
陸上部の主将で400メート走のタイムは54秒。
でも、私は人気者ではなかったのよね。驕りがあったのだろう。難関進学校に入学し、成績ダメダメ、運動もダメダメ、しらない生徒からも侮られたこともあった。
当時の私は、諸葛恪に自分に共通したところを見いだしていたのかもしれない。驕りが身を滅ぼすと。でも、当時の自分の気持ちは分からない🤷♂️。
今は、子どもを持った親の視点から、諸葛恪を見てしまう。おい、諸葛瑾。あなた自分の子どもの才気が危なっかしいと思っていたのなら、キチンと教育しろよと。
当時の諸葛瑾の仕事と私の仕事では比べ物にならない。天と地ほどの差がある。その量も忙しさも責任の度合いも。でもなぁ🤔。
でも、この父親の評価は
その才能に見合わぬ性格の問題から、諸葛瑾は常に「息子は頭が良過ぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもまたこの子だろう」と嘆いていた。Wikipedia
才能があって、性格が悪いのってよくいるよね😅。
政界にも経済界にも芸能界にも教育業界にも😌。生き馬の目を抜く世界なら、性格が悪い方が生き残るのかも。でも、失敗は許されない。諸葛恪は、自分ができるんだという驕りが、周りの反対を押し切り魏へ攻めいることとなった。
本当に周りが全員反対したのかしら。死人にくちなし。負けたから、「周りは反対していた」とならないかしら🤔。戦争って、反対者だらけの中、出来ないものなのよね。戦争を賛成していたのに、負けたら、賛成していた証拠を隠滅するなんてあり得るわ。秀吉の朝鮮出兵だって失敗したから、周りは反対していたということになったのよね。
証拠隠滅は、今だってあるじゃない。ホント、あの近畿財務局の件も、自衛隊の日誌改竄も、キチンと究明してほしい。民主主義の根幹なんだから😡。
現代の国会や役所、学校やテレビ局で隠滅や改竄があるんだから、歴史の中ではあちらこちらにあるはずよ。
あぁ、諸葛恪、なんか気になるのよね。その驕った性格、私は嫌いじゃない。
あっ❗️
私は石田三成は好きなのよ😎。その驕った性格、嫌いではない。
私は石田三成は好きで、諸葛恪は嫌いではない。
「好き」と「嫌いではない」
「嫌い」と「好きではない」
って意味が異なるわよね😄
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