つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

つれづれなるままに人物を語る②石田三成(戦国武将)編

(1)始めに

今回のブログは1万字近いわ😅。とても長いブログ😉✨。歴史好きの方はお読みになってね。歴史があまり得意でない方にも興味を持っていただけるように書いたつもりだけど、つまらなかったら飛ばしてね😌。軽い気持ちでアクセスした方は、悪くは言わないから、ここで退散した方が身のためよ😎。

 

石田三成について書いていたら、彼の話だけでは収まらず、脱線しまくってしまった😜。司馬遼太郎は作品の中で「余談であるが…。」と言って、話を脱線する。しかし、私は、話が脱線したら、戻らなくなってしまった🙃🌀。それが「つれづれ」なんだけれど、力不足を痛感したわ😅。

 

最近、ブログの投稿の時間帯を変えたら、アクセス数が微増しているのよ。ここで、こんな長いブログを書いたら、アクセス数が少なくなるかもしれないと、戦々恐々😁。何事もチャレンジ精神が大切だわ。だってリスクはないのだから😄。

 

(2)石田三成

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石田三成は「義の人」と言われる。「義人」とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人。」とある。彼の正義は豊臣氏が政権を担当することであったのよ。

 

では、「正義とは」と考えると、正義の定義付けは難しい。辞書には「人の道にかなっていて正しいこと」とある。それなら、豊臣氏が政権を担当することが、人の道にかなっていることなのだろうか🤔。

 

豊臣秀吉は、最下層の身分から位人臣を極めた人物だ。

 


最下層の身分の人が政権を担うことは人の道にかなっているのだろうか🙄。

 

現在の民主主義の観点からすると、「最下層」というものがあること自体、人の道に背くものだ。

 

しかし、当時の常識にあてはめてみよう☝️😄。

 

関白は藤原氏の中でも最高の家格である五摂家(近衛家九条家二条家一条家鷹司家)でなければなれなかった。だから、秀吉は、まずは藤原氏の猶子となり、関白となった。

 

 

三成が追い落とそうとした徳川家康三河守になるときに「藤原氏」、征夷大将軍になるときは「源氏」に姓を変えた。

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当時は、由緒が分からなければ、政治を行えなかった。そういえば、秀吉は、はじめは征夷大将軍になろうとして、室町幕府最後の将軍である足利義昭に「養子にしてくれ」と頼んで断られているのよね😄。「どこの馬の骨ともわからない奴を養子にできるか💢」と義昭は言ったとか言わなかったとか。公家よりプライドが高かったのね。藤原氏はお金をつまれてプライドを売った。

 

そりゃぁ、私だって、得たいの知れない人が「養子にしてくれ」と言ってきたら拒否するわ😅。私は家柄なんて○○食らえと思っているが、やはり、素性がわからない人は警戒する。だから、秀吉を養子にした藤原氏って寄生虫だなぁって思っちゃうの。

 

藤原氏寄生虫に似ている」と言及したブログはこちら👋😅


ブロト~ク第3弾 - つれづれなるままに

 

 

今でも、権力の構造は同じよ。

 

昔は天皇の血筋が政治の権威。

今は国民の信託が政治の権威。

 

権威とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。権力の根拠となるのが権威なのよ。

 

さて、三成の「豊臣氏が政権を担い続ける」という正義は正しいのか。これは、彼にとっては正しい。

 

寺の小僧だった三成は、秀吉に気に入られ大名になった。政権の中枢を担うようになった。その恩は海よりも深く、山よりも高い。

 

しかし、その秀吉は主君信長の縁者に何をしたか。次男の信孝を切腹に追い込み、三男の信雄は改易し、御伽衆にした。御伽衆って権力者の話し相手。主君の子を自分の子分以下にしたってことよね。何の実権もない御伽衆。

 

これが戦国の世の習い。しかし、彼はもっと凄まじいことをしているのよ~😱。

 

信孝の母親と信孝の娘を磔にして殺したのよ😱。本能寺の変の翌年、信孝と勝家が再挙兵したため。主君が死んで1年も立たないのに、主君の妻として、そして、その孫娘として崇め奉っていた女性を磔にした😱。

 

主君の死後、主君を「信長」と呼び捨てた手紙も残っている😣。

 

従って、豊臣秀吉は忠義の人ではない。しかし、戦国の世を終わらせようとした稀代の英雄である。その英雄に、最後まで忠義を貫き通そうとしたのが石田三成である。

 

子どもの頃、私は石田三成を悪人だと思っていた。徳川家康に反旗を翻した悪い奴だと思っていた。

 

でも、今は違う。

 

豊臣秀吉は、織田の天下を簒奪した。織田家の家臣の主導権争いである清洲会議で、信長の直系の孫、三法師を奉じて実権を握り、賤ヶ岳の戦いで、反秀吉の急先鋒であり信長の妹お市と結婚した柴田勝家を破った。このとき、織田家の天下を羽柴(豊臣)に譲らないと頑張った忠臣は柴田勝家なのである。

 

徳川家康は、秀吉を真似て、豊臣の天下を簒奪した。豊臣家の中の内紛に乗じた。形の上では、家康は豊臣の家臣である。秀吉の子、豊臣秀頼を奉じて、反徳川の石田三成一派を関ヶ原の戦いで破った。

豊臣秀頼 写真立て グッズ 雑貨

このとき、豊臣の天下を徳川に譲らないと頑張ったのは石田三成である。

 

賤ヶ岳の戦い関ヶ原の戦いは規模が違う。賤ヶ岳の戦い織田家の内紛。関ヶ原の戦いは豊臣家の内紛。しかし、前者は天下に影響力があったといえども、天下はまだ統一していない織田家。だから、全国規模にならなかった。後者は天下統一した豊臣家の内紛。影響は天下に与えた。

 

戦国の世は弱肉強食、下剋上。だから、織田を乗っ取った豊臣も、豊臣から天下を奪った徳川も非難されるべきものではない。だって当時の人々も非難していないはずよ。

 

では、本能寺の変織田信長を討った明智光秀はどうか。彼の行動は、戦国の世であれば非難されるべきことではない。でも非難された。

 

秀吉や家康と、光秀の違いはなんだろうか?

 

それは、大義名分がないことと、味方を作らなかったことなのよ。そして負けたこと。彼は敗者なので、味方しようとした人がいたら、証拠は抹殺されているけれど、その後の秀吉との山崎の合戦では、明智の兵力が16000に対して秀吉は40000である。倍以上の兵力差である。これでは勝てない。皆が秀吉に味方したのは、大義名分があったことと、利があったこと。

 

そう❗️☝️😄

 

味方すれば良いことがあって、加えて味方するのを躊躇う気持ちをなくす「大義名分」があれば、人は動く。大義名分とは、儒教の考え方で、臣下としての守るべき道義や節度のことである。つまり、「行動の正当性の根拠」であると考えれば良い。

 

人を殺したくない。しかし、殺して首を取ってくれば殿様の覚えめでたく(名誉)、加増される(給料が上がる)。主家や自分の家族を守る(大義名分)ためならば、人は喜んで人を殺すだろう。それが戦国時代だ。

 

これは、現代にも当てはまるところもあろう。戦争がそうであることは、皆さんは分かるだろう。仕事もそうである。自社の発展という大義名分と、給料をもらうという利があれば、多少の無理もやるだろう。ここは、あまり詳しくは書けない😎。多かれ少なかれ、現代でも、人を動かすのは「大義名分」と「利」だ。

 

石田三成は、最後まで豊臣に殉じようとした義人である。

 

(3)三成に足りなかったもの

関ヶ原の戦いで彼に足りなかったのは、身分が対等か目上の人に対する礼と仁だ。

 

よき友人の大谷吉継からも指摘されている。「お前は勇気がなく、横柄だ」と。大谷吉継は徳川につこうとしていたが、彼は三成との友情を優先し、三成に味方した。

 

でもね😄。友情ではないかも😳

戦国武将の分析には衆道が必要不可欠だと私は考える。男が男を好きになるということね。

 

織田信長前田利家

徳川家康井伊直政

伊達政宗片倉小十郎

武田信玄と春日源助

 

挙げていったらキリがない。男に興味を示さなかった武将は、豊臣秀吉ぐらいなものだと言われる。

 

男同士のちぎりはとても強い絆である。石田三成大谷吉継衆道だったという説があるが、私は頷ける。

 

石田三成は、どの戦国武将よりも凄いと私は考える。だって石田三成は19万石よ。徳川家康は250万石。経済力の差は13倍。

 

動員できる兵数に換算する☝️😄。その方が分かりやすい。

 

1万石あたり250人と言われる。だから、石田三成の動員できる兵数は5000人程度である。徳川家康は65000人弱。それがあと一歩のところまで家康を追い詰めたのよ。さすが戦国の世を生き残った家康の老獪さに負けてしまったが。13倍の国力の差で、あと一歩のところまで追い詰めるその力。プロデュース力は半端ない😎。

豊臣物産の課長クラスの社員(石田三成)が、創業2代目社長(豊臣秀頼)を蔑ろにする老獪な副社長(徳川家康)の追い落としを図った。もっと人望があればと悔やまれるし、才能があっても勇気と人望のない自分にダブらせている。

 

いや、ある意味、彼は勇気があったわ😳。13倍の相手に戦いを挑んだのだから。

 

石田三成型の官僚は、国を滅ぼすことにもなる。

 

明智光秀は主君を討った。そこに主君に対する義はない。義とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」とある。三成の正義は豊臣氏が政権を担当することであった。一見、人の道に沿っているように見えるのがくせ者なのよ。「正しさ」とか「正義」って抽象的なものなの。だから、危ないの。「正義」っていう言葉は美しいでしょ。でも、抽象的だから、中身がなく、何でも中に入れられるのよ。宝石箱に似ている。

 

宝石箱は美しい。何か素晴らしいものが入っているかもしれない。中身は糞尿かもしれない。でも、宝石箱を見ている限りは美しい。

 

正義って美しい言葉。何か素晴らしいことを語っているかもしれない。中身は戦争かもしれない。でも、正義という言葉を見ている限りは美しい。美しい言葉だから、その言葉にうっとりして酔ってしまう。

 

「豊太閤(秀吉)様のご恩を忘れたか。その豊太閤様が秀頼様を後継者とお考えなっておられた。そのことは五大老どもも知っていることだろう。それなのに、そのご遺志に反することを行うのは正義ではない。正義は政権が豊臣氏にある状態なのだ。」

 

正義は独善的になる。なぜなら、我が身の利害を考えないからだ。

 

人は我が身の利害を考えるものなのである。三成さん、あなたは我が身の利害を考えなかったのであろう。それは素晴らしいことなのかもしれない。いや、素晴らしいこととしておこう。しかし、それを他人に求めてはいけない。あの秀吉さえ、実質的には天下を治めきれなかった。なぜなら、織田信長が死ぬまで、信長の一家臣だった。それも「サル」とか「ハゲネズミ」と小バカにされていたのである。それを才能ではね除けた。

 

考えてみる。会社の出世競争。

 

ずっと年下の後輩が自分の上司になったとしよう。その後輩上司に心から従える奴は稀である。加えて、自分は高学歴、後輩上司は名の知らぬ大学卒だったらなおさらではないか🤔。それが人の自然な感情である。そして、それを理性の力で抑えているのではないかなぁ🙄。

 

秀吉は、身分制が厳しい時代に生きた。身分の最下層の卑賎の出。それは小牧長久手の戦いのときの家康の家臣である榊原康政の檄文からも分かる。

それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。しかるに、いったん信長公の寵遇を受けて将帥にあげられ、大禄を食みだすと、天よりも高く、海よりも深きその大恩を忘却して、公の没後ついに君位の略奪を企つのみか、亡君の子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その言語に絶した大逆無道 黙視するあたわず、わが主君 源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公の微弱を助けんとして蹶起せり…。

秀吉の痛いところを突いた名文である。現在、こんなことを書いたら、書いた者の人格を疑うが、当時はこれが常識なのよ。そんな状況の中で、信長が死んで8年で天下を統一した。でも、天下の武将は秀吉を心の底から臣従していないわ。気性の荒い戦国時代の人々は「あいつが天下人になれたのだから、俺もなれるはず」と思ったはず。そう思わなくても「あいつが天下人になれたのだから、俺も今以上の身分にはなれるはず」と思ったわ。だから、関ヶ原の戦い前後の家康の言動も、その後、家康が豊臣を滅ぼしたのも、当然であると受け止めていた可能性が高い。「力がある者が天下を治めるのは当然である」と当時の人々は思っていたのよ。その「力がある者が天下を治める」という常識を覆したのが、徳川幕府であるのよ。この辺は、後日語りたいわ。

 

(4)私の石田三成

長々と、石田三成の評価を語るための時代背景を語ってきたわ。私は、それでも石田三成が好きなのよ。理念先行、利害無視。自分の理念に反したら、どんなに強者であっても立ち向かう勇気。短所である「横柄」「不器用」も、私にとっては好感度が高い。横柄なのは自分より目上の人に対してだ。良民には慕われていたとも言われる。豊臣家に対して忠義の人であった。その忠義が正しかっかたというと、それは難しい。結果、豊臣家の滅亡の原因となったという解釈が可能だ。

 

しかし、野党(政権を取って変わる者)の存在を認めるようになったのは、民主主義が善となった近現代だ。近世までは、野党の存在を認めない。政権をとる手段は戦争だ。平和な選挙ではない。だから、選挙は戦争とも言い換えられるのかもしれない。

徳川が政権を取れば、前政権を担当した豊臣が滅ぼされるのが、この時代の常識だ。

優しい男だった平清盛は、野党となる者を残してしまった。源頼朝である。平清盛源頼朝の父と争って勝った。頼朝の父は殺された。まだ、12歳の頼朝は、清盛の義理の母の助命嘆願で処刑されなかった。

 

義理の母の願いだったのがポイントよ☝️😉✨。

 

実母だったら、清盛は彼女の言うことを聞かなかったと私は思うの。義理の母への遠慮が清盛にはあったはず。また、義理の母は清盛に我が儘を言って、清盛の心を試したのよ、きっと😣。

「この子、私の言うことを聞くかしら。キチンと母としてたててくれるかしら。」ってね。

だって、敵の御曹司、源頼朝を「私の亡くなった子どもに似ているから殺さないで~。」なんて言えるか~🤔。私が平清盛で、実母に言われたら、「母上。全く似てません。」とか、「母上、似ていても、あの子ではありません。憎っくき源義朝の息子です。」とか、「母上、眼科に行ってください。」と言うだろう😎。しかし、義理の母に言われたら…、私も許してしまうだろうなぁ😅。清盛の継母は池禅尼である。清盛の父親のもう一人の妻だ。だから、比較はできないのだが、私にも義理の母がいる。妻の母親だ。義母に「亡くなった息子に似ているから助けてほしい。」と言われたら…。それは非情になれないな😌。実母であれば「俺がいるだろう。ふざけるな。」と言える。いや、そういう気持ちで接することができる。しかし、義理の母にはそんなことはできない。「俺がいるだろう。」と言ったら、「だってお前は実の子ではないじゃないか」となるだろう😓。それに、義理の母に無慈悲なことをしたら、妻からも詰られるだろう😱。まぁ、こんな想像をすること自体、詰られてしまうのだが😅。

 

頼朝を殺さなかったために、平氏は滅びた…とは、私は考えない😔。源頼朝がいなくても滅びたであろう。それかしばらくの間、一地方政権となってその後滅びたであろう。なぜそう言えるのか。それは歴史の流れに逆らっているから。次代の歴史の主役は武士である。これは、この時点で確定している。土地が富を生むものだから、土地を誰が支配するかが重要なのだ。朝廷は権威はあったが、実力はない。土地の支配も名義貸しみたいなもので、実際は武士が支配していた。しかし、名義を借りている手前、武士は、多額の名義貸し料を貴族に払っていた。貴族は不労所得を得ていたのね。それで「幕府」という武士の労働組合を作って、労働争議を起こしていたのよ。当時は「幕府」なんていう言葉はなかったけれど。武士が土地を実質支配しているのだから、次の主役は武士なのに、平氏は、武士の武士による武士のための政権にしなかった。だから、平氏政権は潰れるのは自明之理。

 

と考えると、豊臣政権も、大きな歴史の視点で見れば、豊臣氏が武士を治めようとする限り、滅びるのは自明之理。だって、秀吉のワンマン経営だったから、行政組織も不完全なものだった。その上、トップは子どもとお嬢様。さらには譜代の家臣がいない。譜代の家臣とは何代も渡って仕えた家臣である。ナイナイ尽くしの急ごしらえの政権であった。

と考えると、私は石田三成に同情してしまう。そして、無理をしなくては滅びることが分かっていて、それでも何とかしようとするところが、今の私と被ってしまうのよ😅。また、主流だった人が主流から外れても、慕う気持ちに変わりがないところも、私と被ってしまうのよ。「この人は」と思う人とは、損得抜きなのよ。家族が大変な思いをしていると聞いたなら、何の確認もせずに、疑いもせず、会社のことなんて放っておいて、家族に尽くせと言える人に私はついていく。やはり、人と人とを繋ぐのは情である。

 

石田三成は、多くの人と情で結ばれず、利も説くことができなかったが、主人に尽くし、大谷吉継という親友がいて、良民に慕われた人である。私はそんな石田三成が好きだ。

でも、最後に1つ三成さんに言いたいことがある。豊臣家を存続させたかったのなら、武家のトップは徳川に譲り、公家のトップとして残り続けることも可能だったのよ。大阪城を出て、天皇にすがれば良かったの。それでも生き残れなかったかもしれないけれどね。でも、それを三成に言うのは酷かもしれない。だって、家康に味方した、秀吉の子飼い、福島正則加藤清正などは、豊臣家に反抗している気は更々なかった。奸賊三成を殺せば良かった。彼を取り除けば豊臣氏は安泰だと考えていた。徳川家康はその気持ちを利用し政権を奪ったのよ。公家になることを勧めなかった非は、関ヶ原後、豊臣氏内で実権を握った者達にあろう。大野治長とかね。豊臣氏を滅ぼした一番の原因は誰だと考えるかな🤔。私には答えがある。それは…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豊臣秀吉よ。小牧長久手の戦いで徳川家康を滅ぼせなかった。戦闘では秀吉は家康に負けたのよ。しかし、戦略で勝った。家康は、織田信長の三男信雄を旗頭に秀吉と戦った。秀吉が織田家を乗っ取ろうとしているので助けてほしいと信雄が家康に頼った。家康は「織田家の同盟国として助けるのが義である」と、秀吉と戦った。戦闘では2度も勝った。一方、秀吉軍は利に集まった烏合の衆。ただ勝ち馬に乗りに来ただけの味方ばかり。忠義の譜代の家臣はいない。負け始めれば、裏切ったり、逃げたりしてしまう。秀吉軍は崩壊してしまう。それを熟知していたのは他ならぬ秀吉だ。だから、家康を差し置いて、旗頭の信雄と和解した。ホント、信雄は不義理なバカ殿。家康に相談なく和解した。家康は天晴れ、その事を非難することなく「戦がなくなるのは天下にとって素晴らしいこと」と言って軍を収めた。こんな腹芸できないわ。信雄に怒って当然よ。彼のためにお金も人も使い、死者も出ている。腸は煮えくり返ったであろう。しかし、怒らずに矛を収めた。これは敵わない。秀吉は家康が怖かったであろう。色々なエピソードがあるが、最も印象的なのは、その最期である。泣きながら、家康を筆頭とした五大老に「秀頼を頼む」と頭を下げ、誓紙も書かせた。でも、無理よ。そんなこと。家康は腹の中で「それは身勝手だよ。ハゲザルよ。お前が織田家にやったことを今度は俺が豊臣にしてやるよ。だって、政治の組織もできていないし、こんなはな垂れ小僧(秀頼)と深窓のお嬢様(淀)に天下を治められるものか(笑)」と、言ったはず😎。秀吉でも敵わなかった相手に、家康からしたら小役人三成が敵うはずがない。

もしも、秀吉が死に際に、秀頼と淀と諸大名と家臣を全員集めてこんなことをしたら、家康は手が出なかったかもしれない。

「秀頼よ。私が死んだあと、家康公を父とせよ。主人とせよ。家康公よ。もし、秀頼が成人して立派な武将になればよく補佐をしてほしい。無能ならば廃し、あなたが天下の主となれ。」

こう言ったら、その場では「はい」と言えないだろう。そこに畳み掛けて

あなたを征夷大将軍にするよう朝廷に伝えよう。

と言ったら、彼は辞退せざるを得ないだろう。これは、三国志で死に際の劉備諸葛亮に伝えた言葉を参考にした。

 

さて、長々と書いてきたが、私がこのブログで言いたかったことは、石田三成が好きだということなのよ。たった「石田三成が好きだ」と8字のことが言いたいがために、10000文字近く使ったことになる。しかし、こうも言える。一文字に1000倍以上の情報が入っていると。言葉って面白いね。最後までお読みになった方は、「ゆうのことがとっても好き」か、「歴史がとっても好き」か、「とっても暇か」のどれかよね。とっても暇だった人が、このブログを読んで、私のことを好きになるか、歴史を好きになったら、と~っても嬉しいわ😆。

 

最後まで付き合ってくれてありがとうございます🙇