つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

「8時だよ❗️全員集合」を見て、素直に笑えなかった😱

DVDで見たドリフターズの家族コント。いかりや長介さんが未亡人のお母さん役。他のメンバーはその子どもの役。

当時は楽しく見ていた😄。

しかし、今見ると、とても微妙だった😌。

 

志村さんが、バカな末弟となっている。今でいうと知的障害者となるのだろう。

母親役のいかりや長介さんが、子ども役の志村さんに

「お前はおつむに隙間があると学校の先生が言っていた。」

「学校の先生がお前は勉強しなくて良いと言っていた。」

「お前は生きているだけで良いんだから、兄ちゃん達の勉強のじゃまをせず隣の部屋で大人しくしときなさい。」

と言った。

 

また、志村さんは兄貴役の加藤さんにベタベタくっついたり、加藤さんの服の裾を弄くったりする動作があった。

 

観客を笑わせる志村さんの行動は知的障害を持つ子どもの行動であった。

 

世間の社会の常識は変わる。それによって世間の笑いの常識も変わる。

昭和の時代は、知的障害者に対して、このような扱いをしていたのかとつくづくと思った🙄。

 

個人が持つ常識は、社会の常識の枠から飛び出すことは困難だ。こういうことをギャグにしていたからと言って、ドリフターズの功績が落ちることはない。輝かしいものだったと私は思う🤔。

 

当時の作品を今の視点で見て、評価を下げてはならないと考える。

 

しかし、当時の作品やキャラクターを郷愁から、今に復活させて公共の電波で流すことは問題があるのかもしれない。その象徴的な出来事が、2017年、あのとんねるずの石橋貴明さんの「保毛尾田保毛男」というキャラクターがテレビに復活したことだ。性的マイノリティを嘲笑するキャラクター。これと同様に、ドリフターズも当時のまま公共の電波に乗せることができないコントも多々あるのだろうか🤔。

 

でもね、今、視聴率を稼いでいるバラエティー番組だって同じことが言えるかもしれないよ。

 

特にあの番組は、最近、見ていて痛々しくなるときがある。あの番組を制作している人間は、芸人を消費財としてしか見ていない。どっきり企画で、見せないでいい芸人の裏の顔や生活を見せてドンドンと芸人を消費して、ポイ捨てをしているように感じるのよ。それに使われる芸人は、いつも中堅か格下芸人。

 

そういうどっきりを大物芸人に仕掛けてみろよ~📢🤣。できないだろう。

 

まぁ、いじられている格下芸人もメリットがあって持ちつ持たれつなのだろうが、ホントいじめの構造よ。そのプロデューサーが役員待遇になったなんて、その放送局の倫理を疑うわ😅。

 

過去の作品を録画で振り返るときに現代の倫理に反すると言って言葉狩りや表現狩りをするのには違和感を持つが、現代の倫理に反する作品を今演じるのは問題があると思うのよ。

 

何かうまく表現ができないんだけれど😅。

 

昭和は遠くなりにけり。

 

うちのチューは昭和に生まれなくて良かったよ。いや、彼が生まれるほんの10年前に生まれていたら、彼のような子に今のような理解はなかった。

 

だから、今の世の中にしてくれた先人に感謝する。多様性が浸透したことに感謝する。そして、今、理解してくれる人たちに感謝する。

 

そして、今の良いところを残していきたい。残してほしい😄。

 

DVDのドリフターズを見て笑ったけれども、何か色々なことを考えさせられたわ😔。