つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

新型コロナウイルスによる政府の休校要請から、現在の子育て社会を考える🤔

ふと、思った🤔。専業主婦はリスクヘッジという効果もあったんではないかと。

 

新型コロナウイルスへの政府の対応の良し悪しの言及は、ここでは避けるわ。先日政府が出した「全国の公立小中高・特別支援校の一律休校の要請」に対する社会の反応を見て、ふと思ってしまったのよ😅。

 

批判もあるだろうが、書き残しておきたくなってしまった📝。

 

現在は男女共同参画社会である。

男女共同参画社会基本法第2条によると、男女共同参画社会とは以下のように規定している。

男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会

 

子育てって、社会のあらゆる分野における活動の一つなのではないかな❓🤔。

子を生み、育てることは、社会の中でとても大切な活動なのではないかな❓🙄。

 

子どもを生めない人への配慮を主張するならば、働けない人への配慮も必要だろう。いや、できない人への配慮から、現在あるものを消してしまうのはよくないことのような気がする🙄。

 

政府が公立の学校を全て休校するように要請した。保育所や学童のような所はこれまで通り子どもを預かれという。

確かに、共働きが多い世の中なので、柔軟な対応である。これは経済上の判断であろう。

しかし、衛生上で考えると、これは一貫性はない。

学校で新型コロナウイルスに移る可能性があって休校するならば、保育所だって同じだろう。

いや、免疫力の低い人ほど危ないというのなら、保育所こそ真っ先に閉じるべきだという考えだってあり得る。

 

こう考えていくと、この政府の要請は、一貫性のない場当たり的なものである可能性は高い。

今後、コロナウイルスがもっと広まった場合、「これは公立の学校で広まったものではありませんよ。」という言い訳となるのだろうか🤔。

 

あぁ、ここでは政府の対応の良し悪しの言及はしないのだった😎。

 

「『政府の出した今回の要請で社会が混乱する』という因果関係が正しい」とすれば、原因が「政府の出した要請」であり、結果は「社会が混乱する」である。では、なぜ社会が混乱するのか🤔。

 

考えられることは

①政府の要請が社会常識や制度にあっていないか配慮がない。

→今の報道を信じると、配慮に欠けると私も思う。

 

②政府の今回の要請がコロナウイルスを封じ込めるのに妥当なものであるとしたら、社会常識や制度自体がおかしい。

→今回の要請が妥当なものでなくても、こういう要請があったときに対応できない社会となっているといえる。

 

男女共同参画社会は、お国の方針であり、世界の潮流だ。でも、だからといって、その方針や潮流が正しいとは言えないかもしれないのよ😱。

 

あっ、ここで私の立場を明確にしておくね☝️😄

 

私は「男女共同参画社会に賛成」だが、「社会のあらゆる分野の活動の中に『子育て』も入れるべきだ」という考えよ😄。

 

子育て軽視の世の中であるために、今回政府が出した要請で混乱をしているともとらえることが出来るんじゃないかなぁ🤔。

 

夫婦が共働きである。

乳幼児のときには、保育所に子どもの世話を任せる。

小学校に入学すると、学校や塾や学童などに任せる…。

任せる代わりにお金を払う。

 

ふむ~🤔

カッコウという鳥は、他の鳥の巣に卵を産み、育てさせる「托卵」という習性がある。

この習性はとてもエグい。

簡単に言うと、他の鳥の巣に卵を産んで、孵化すると、他の卵を捨ててしまうのよ。仮親の卵より早く孵化するのよね。タマゴを温めるという重労働を他の鳥にさせた上に、その鳥の卵は捨ててしまう。極悪の極致だけれど、これが弱肉強食の世界。

 

そして、そこに親の子に対する愛はないだろう。

 

人間は、子を産んだ後、育てるのは他人任せ。労働と時間をかけて得た金を払う。金を払うが、子どもの成長した結果には責任を持たない。

例えば「託児所が悪かった」「担当の先生が良くなかった」「塾の指導に問題があった」など、子どもが育った結果を他責にする。いや、「自分の子どもがこうなったのは、子ども自身の責任だ」と責任転嫁する😱。

何か、うまく言えないが、カッコウの托卵に似ている🙄。「托子」かな😁

 

社会的ステータスと経済優先の常識が問題なのではないだろうか。

親の愛情を一身に受けて育った方が、子どもにとって幸せだろう。しかし、親がいない子どももいる。毒親に育てられた人もいる。

 

親がいるならば幸せだ。

幸せならば、親がいるはずだ。

どちらも、この因果関係は成立しないだろう。それは「親がいなくても幸せだ」「幸せであっても親がいない」ということもあり得るからだ。

しかし、そうであっても、それは親がいない状態を、子は自ら望んだのだろうか🤔。いや、毒親であることも、親がいないことも、子どもは望んでいないはずだ。オギャアと生まれて、「俺には親なんていらないぜ😎」と思う赤ちゃんはいないはずだ。

 

血の繋がっていない親であっても、赤ちゃんにとって育てる者は必要だ。親を必要とするのは人間の性なのかもしれない。血の繋がらない親に育てられると、物心つくと血の繋がる親を探したいという気持ちにもなる。

 

う~ん🤔。

これは固定観念だろうか🙄。

 

少なくとも、私が育った環境と、私の息子チューの今の様子を見ると、親の愛情を一身に受けて育った方が子どもにとって幸せだと言える。

 

甘やかすということではない。

厳しさも愛だ。

愛とは行動であり、その行動に責任を持つことだと私は考える。

責任を持つことは理性だ。理性は人間だけが持つ。愛して、子どもをつくって子どもが生まれる。生まれた子に親は責任を持つ。

 

では、「親が共働きで、子どもを幼いときから他人に預けて育てる」のは、子どもにとって親の愛情を一身に受けたことになるのだろうか❓🤔

 

何をもって愛情というのかは、人それぞれであろう。また、共働きでないと家計が成り立たない方もいるだろう。でも、人それぞれであれば、私の考えも人それぞれの1つである。その人それぞれの1つの考えを言うと、子育てに親がメインに関わるのが愛情だと考える。主婦でも主夫でも良い。両親のどちらかが子育てをメインにするのが、子どもの情緒を育む土台だと思う。

 

でも、これは今の社会では難しい。シングルもいる。親なき子もいる。そういう中で、幸せになろうと一生懸命に生きている方々がいる。このような方々には支援の手が必要だろう。

 

う~ん😣。

分からなくなってきた🤷‍♂️。

 

しかし、私の心の中で、1つ確かなものがある。

 

子育てって、キャリアを積んだり、社会的なステータスを得たりすることと同じように、リスペクトすべきものだと思うのよ。そして、主夫や主婦ももっと大切に思われても良いような気がするの。子どもにも子どもを育てている人にも優しい社会であってほしい。

 

一億総活躍の中に、子育ても入れてほしいなぁ😄。