世の中不便な方が良い❓🤔
人間の好奇心が、住みにくい世の中にしているのかもしれない🤔。
私が入社した頃は、電子メールなんてなかった。会社では本部からの指示は、社内郵便を使っていたから、指示を出したあと2~3日のタイムラグがあった。携帯電話なんてなかったから、会社を出れば、会社からの連絡なんて気にしないで済んだ😆🎶。
それが今では、社内外からバンバンメールが入る。指示出しと指示を受けるタイムラグがない。携帯電話があるので、会社に見えない電子の糸でプライベートも繋がっている😱。
グローバル化やIT革命は、人間が人間らしく悠久の時間を多様に生きていくことを奪ったのかもしれない。
グローバル化は人間の知的好奇心と利益追求から始まった。ヨーロッパの大航海時代が始まりだと私は解釈する。新天地を求めた冒険。植民地を求めた侵略。信者を増やす布教。そこで行われたことは、結果として、植民地を増やし、一神教化であった。地域地域で行われていた民族宗教の軽視は、多様性を唱える今でもある。「世界が使っているから西暦を使えって、冗談じゃない。日本には日本の暦ってもんがあるんだ。」と言ったら、ネト○ヨに認定されるかもしれないなぁ🤔。
でも、ふと反対意見を考える🙄。昔は不便で良かったのかと😔。
一例を挙げると家事ね。洗濯板と盥で洗濯する。薪を組んで湯を沸かす。掃除、洗濯、料理…、家事は重労働だった。昭和の高度経済成長は、専業主婦である女性の家事からの解放でもあったと私は考える🤔。自動洗濯機、自動炊飯器、掃除機、冷蔵庫…。家事はとても楽になった。外食産業が発達し、家庭での炊事がなくなりつつある。そしてコンビニの登場。家庭の味、お袋の味がなくなり、幼き頃食べたお握りは、コンビニの規格品となった。
便利になるということは、多様性がなくなることでもあるのかもしれない。各家庭の味が外食産業によって失われていく。しかし、外国に目を向けると、外食が安く、家で料理をする習慣がない国もあるという。「料理は家で作るものだ」という常識のない、言い換えると「食事は外でするものだ」という常識の国もあると聞く。と考えると、食事ひとつとっても、家庭食と外食で善悪をつけられないものなのであろう🤔。
日本の多くの外食産業は資本主義にドップリと浸かっている。資本主義に浸かっているということは、顧客を増やし、利益を上げなくてはならない。顧客を増やすためには、リピーターも増やさなくてはならない。リピーターを増やす方法は、中毒性のある味にすれば良い😱。
20世紀後半から21世紀初頭にかけて、音楽業界を席巻した、音楽プロデューサー小室哲哉氏。彼は日本人の琴線に触れる中毒性のある音楽を次々に生み出し、時代の寵児となった。しかし、彼の生み出したものは、音楽であったので、人間の脳や体に悪影響はあまりなかったであろう。いや、こうも言い切れないかもしれないが、ここでは触れないでおこう。
流行りの外食産業は、さほど旨くないが何度も食べたくなる味を提供する。この「さほど旨くないが」がポイント。あの大手ファーストフードだって、化学調味料が使われている。何度も食べたくなる配合で。化学調味料は、人の脳や体に影響を与えるとも😓。
アルミ缶だって、便利だが、体に悪影響を与えているのかもしれないなぁ🤔。
日本人の気質が変わったのは、こういった食べ物の蓄積かもしれない。アトピーも、親が食べたものが、子や孫に症状として出てくることがあるとも聞いたことがある。
便利にしようとして不便になることもあれば、不便のままの方が便利なこともある。しかし、物質的な便利さを追い求め、精神的な便利さ、快適さ、そして健康をなくしてしまう。
だからといって、今の物質に囲まれた社会で物質的豊かさを捨てられるか?
物質的便利さを捨てられるか?
捨てられないだろう。それらを捨てれば、物質的豊かさに慣れた人間は、精神的な苦痛を味わうだろう。原子力発電をゼロにできないのも、物質的豊かさに慣れてしまっているからだろう。
自動車が溢れる社会を捨てられないのも同じだろう。だって便利だもの。それに利権も絡んでくる。車大国に加えて少子高齢社会の日本。高齢者の事故も当然増える。でも、運転免許定年制をもうけることができない。
私が考える、その主な原因は2つある✌️😔
1つは自動車の必要性。都会では公共の交通機関が発達しているが、過疎の地域にはそれがない。家庭に自動車がないと住民の足が奪われてしまう。過疎の地域の住民はほとんどがお年寄りだ。彼らから免許を取り上げられないだろう。彼らから免許を取り上げられないのなら、都市に住むお年寄りからも免許を取り上げられないだろう。
もう1つは、自動車産業が日本の基幹産業であり、少子高齢となっている日本の消費のボリューム層が老人になっていることだ。