つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

宗教談義

もう20年近く前になるかな🤔。会社の飲み会で、哲学的な話になった。そこで、私がいまだに印象に残っている出来事がある。

 

どんな流れだったかは定かではない。私が「神様って人の心ですよね。」と言ったら、「それって結構大切な視点だよ」と上司が言った。また、「弱いことって、結局強いことなんじゃないですか。」と私が言ったら、その上司は「その考えって危ない面があるよ。」と言った。それがなぜかという話にはならなかったのだが、その言葉が妙に耳について離れなかった。まぁ、こんな話をお酒を飲みながら上司とできる良い時代だった。だから、生徒指導も充実していたんだと思う😔。

 

彼の大学での専攻が「宗教」だったのも頷ける。今なら、彼が言いたかったことは、よく分かる。

 

信仰って、やはり人の心なのよ。

 

神は人の心とするならば、「神はいない」とか「宗教は阿片である」というのは、その人には人の心がないということに等しい。だから、そういう考え方に対して人は衝撃的でもあり、憎悪もするのだろう。

 

ユダヤ教という母は3人の子を生んだ。長兄キリスト教と、次兄イスラム教の仲は良くない。しかし、末弟の共産主義は「私には母(神)はいない」と言い出した。

 

無神論は、「私には『母はいない』」もしくは、「私には『心がない』」と聞こえるのだろうか🤔。

 

マルクスニーチェもほぼ同じ世代であり、ドイツ出身であることに興味がある。

 

この辺りの話は、他に譲る。

 

哲学や宗教を知ることは大切だと思うの。

 

マルクスさん、人の宗教心を否定しては、なかなか受け入れられないよ。確かに、宗教心を利用する権力者は後を絶たない。

世界宗教もそうだろう。キリスト教もその一つ。免罪符という集金システムがあった。

また、民族宗教であれば神道も同じだろう。いまだにお賽銭という集金システムがある。

 

仏教であれば浄財か🤔。

 

例を挙げたら、キリがない。ここで考えてもらいたいのは、このたくさんの例をもって「宗教は阿片(覚せい剤)」と言い切って良いものだろうか。この言い切りとは一般化ね😄。

 

3つの連続する整数の和は3の倍数になる。

0+1+2=3

1+2+3=6

21+22+23=63

 

😎「ほ~ら、3つの連続する整数を足すと3の倍数になるだろう。」

 

👦「いや、もっとたくさんの試してみたら、3の倍数にならないかもしれないじゃん。」

 

111+112+123

=336

 

999+1000+1001

=3000

 

😎「ほ~らこれで納得したかい。」

 

👦「いや、もっとたくさんの試してみたら、3の倍数にならないかもしれないじゃん」

 

😎「数は無限にあるんだ。全て試せるわけないだろう💢。」

 

👨‍🏫「じゃぁ、私が説明しよう。」

 

😎「そんなことができるのかい。」

 

👨‍🏫「整数をXとおこう。このXにはどんな整数をいれても良いとする。」

整数=X

3つの連続する整数

X-1,X,X+1

これを足すと

(X-1)+X+(X+1)=3X

 

👨‍🏫「Xにどんな整数にしても、その整数を3倍しているのだから、必ず3の倍数になるよね。」

 

👦「納得~❗️」

 

なぜこんな話をしたのか🤔。これは私の大好物の具体と一般化。言い換えると、公式化と言っても良いだろう。

 

いくら具体的な例を挙げても、一般化をする場合は飛躍が入るもの。数学の公式には飛躍はない。しかし、事象の公式化には飛躍が入るのよ気をつけて。

 

「宗教=阿片」という公式には飛躍が入るというか、欠落した部分がある。この公式を成り立たせる私の見解をお伝えするわ☝️😄。

 

キリスト教+教会(国家)

=腐敗

(教会は組織化といっても良いかも)

 

神道(の教え)+日本

全体主義(戦争)

 

仏教+幕府=檀家制(堕落)

 

どれも、宗教が人を縛り付ける、もしくは人を不幸せにするのは、権力者に利用されたときなのよ。だから、

 

宗教+権力=阿片

 

いや、宗教と権力が化学反応したときだから

 

宗教+権力→阿片

 

となることが多いとしておく😄。「ことが多い」がポイントね😉✨

 

従って、宗教が阿片(覚せい剤)であるわけではない。宗教に権力が絡んだときに阿片となることが多いと言えるのよ。

 

だから、「宗教は阿片ではなく、宗教を使うものが宗教を阿片に変える」というのが私の考えなのよ。私のマルクス論はこちら👋😄


つれづれなるままに歴史を語る(第2部①) - つれづれなるままに

私はニーチェも好きよ💕。彼は晩年狂ってしまった。いや、あんなことを考えていたら狂うわよ😱。

 

昔は「強い者が善」であり、「弱い者が悪」だった。強い者に憧れるのは、生き物として当たり前の事だ。それを倒錯させたのがユダヤ教であり、キリスト教であるとする。

 

国が滅びて虜囚の目に遭い、「いつか救世主が現れて、憎いあん畜生の顔めがけて、叩いて、倒してくれる」と思っていた🥊。しかし、いつまで経っても救世主が現れない。すると、「私に暴力をふるうのならふるいなさい。私は抵抗しません。いや、私達の財産を狙うなら私達の上着をも与えなさい。」と言うようになり、「何て悲しい人たちなのでしょう。」と心の中で蔑むようになった(ルサンチマン)。そして、強者が弱者になり、弱者が強者になったターニングポイントがキリストの磔刑であると言う。

 

これを知ったとき、私は、スゲ~😱と思ったよ。これは狂うわ。ここまで分析してしまうなんて。

 

その上、彼は「ツァラトゥストラはかく語りき」で「神は死んだ」と言う。「髪は死んだ」じゃないのよ😅。「神」よ、「神」😱。神様なんて人間の妬みが作り上げたものと看破し、その神を人間はよってたかって集団リンチして殺してしまったのよ。

 

キリスト教絶対の世界でそう言いきったのが凄い⤴️⤴️。

 

彼は、その神が死んだあとの世界まで言及し、そんな神がいない世界をどう生きるかまで考えたことも凄い⤴️⤴️。

 

そして、現在、日本に住む多くの人に当てはまっちゃうのだから、さらにすごい。興味があったら調べてみてね😉✨

 

たまにこんな偏った内容もあるのが、つれづれブログたるゆえん。お付き合いありがとうございました🙇。