つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

宗教を取り締まることの是非🤔~歴史的な視点や現代の視点や為政者の視点で考えていたら、こんがらがったわ‼️😱~

今、支倉常長に関するテレビを見ている。

支倉常長:武士、ローマを行進す (ミネルヴァ日本評伝選)

支倉常長は、安土桃山時代から江戸時代初期に伊達家に仕えた武将よ。江戸時代初期、使節となり、太平洋を渡り、スペイン国王やローマ法王に謁見した人物である。支倉常長の使節団をヨーロッパに派遣することに関して、伊達政宗は徳川家康の許可を得ている。

 

そのテレビの中で豊臣秀吉の行った日本二十六聖人殉教事件や江戸幕府の禁教政策についての話があった。

 

ふと思ったのよ🤔。

 

諸説あるけれど、ヨーロッパ諸国はキリスト教を植民地拡大に利用したとされる。

 

392年にテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教とした時点で、キリスト教の布教は国策となり、キリスト教に権威ができた。そして、世界帝国を作った。その影響は、当然現代にも及ぶことは事実である。

 

世界宗教ってグローバリゼーションの1つかしらね🤔

 

国境を越えて、地球規模に拡大していき変化をもたらすものをグローバリゼーションという。

 

グローバリゼーションの起源は大航海時代だと言われるが、その原型は太古の昔、地域と地域が交易を行いだしたところに求められるんじゃないかしら🤔。

 

その頃に地球という概念自体がなかったが、地域同士の交易が、ネットワークになり、海の向こうの人々とも交易を行いたいという欲望となり、それが地球規模になったのが大航海時代かもしれないなぁ🙄。

 

グローバリゼーションの原型が太古の昔に求められるとするならば、グローバリゼーションは人間の欲求に繋がるもので、抑えられないものだとも言える。グローバリゼーションは人間を豊かにしたが、生きづらい社会にしたとも私は思う。

 

宗教が世界的に広まるということは、宗教の押し付けにも繋がる。それに、宗教を政治や経済、そして支配の道具としたことは事実であろう。

 

支配したい地域の尖兵として、支配したい地域にキリスト教宣教師を送る。キリスト教を使ってその地域を教化する。住民の心をキリスト教が支配するのよね🤔。その後、軍隊を送りつけて、力でその地域を植民地とする。そして、キリスト教に従わない者は殺しても構わない。だって正義は自分達にあると考えているから。自分達の正義に従わない奴らは悪魔と同じ。

 

なんていうものが自分が治める国に入ってきたら、支配者はそれを排除するのは当然なんじゃないかしら🙄。それが事実かどうかは別にして、そのような危険なものが入ってくるのを防ぐのが為政者の役目よね🤔。為政者自身の立場も悪くなるし。

 

今でもそんな国があるじゃない。国の考えと異なる者を捕え牢獄に入れ殺しても屁とも思わない国がいくつもあるじゃない。

 

現代に生きる私の常識だったら、それを否定する。

 

しかし、安土桃山時代の豊臣秀吉や江戸時代の幕府の立場と、その時代の常識に当てはめたら、秀吉の日本二十六聖人殉教事件も江戸幕府の禁教政策も否定しない。キリスト教徒が過酷な扱いを受けたのも当然だと考える。

 

豊臣秀吉が九州を平定したあと、ある有力な宣教師が秀吉を博多で出迎えた。その際、最新式の軍艦に秀吉を乗船させた。その軍艦の性能を自慢しつつ、「私はスペイン艦隊を動かせる」と言ったそうだ。

 

これは恫喝よね😱。

 

日本にいるキリシタン大名たちがこぞってイエズス会(キリスト教の一派)に領地を寄進してしまった。寄進って寄付のことよ。無償で領土を外国に譲ってしまったのよ。

 

これって売国奴よね😨。

 

売国奴とは、自国を害し敵国を利する行為をし、私利私欲を満たす国賊よ。

 

そんなことを許せば、日本は他国の植民地となる。

 

秀吉は九州で日本の多くの貧しい子どもたちが、西欧人に奴隷として売られていることを知った。多くの若者が手足を鎖で繋がれて船底に押し込まれた。

 

これがキリスト教で神を信じる者の行為だろうか。でも、奴隷貿易って立派な商行為なのよね。当時の西洋の人にとって😥。

 

豊臣秀吉や江戸幕府の禁教政策を非難する人は、ときの支配者を軍艦で恫喝し、国土を寄進という形で奪い、国民(という感覚はなかったかもしれないが)を奴隷にしてしまう宗教を認めるのが正しいとでもいうのかしら?

 

いや、例えば二十六人の聖人はそんな残虐な行為とは関わっていないから許されるって考える人がいるかしら🤔

 

それは甘いと思う😔。

 

これから言うことは、あくまでも当時の感覚よ。今とは違うからね。念を押しておく。

 

秀吉や江戸幕府から見たら、当時のキリスト教は今でいうオウム真理教と同じなのよ。

 

オウム真理教と言っても、今の若い人はピンとこないかもしれない😥。

 

オウムは自分達の犯罪を追及する弁護士一家を惨殺し、その他、あまたの殺人事件を起こし、国政選挙で惨敗すると、地下鉄にサリン(猛毒)を撒くというテロ行為を行った。東京の上空からサリンを散布し日本を大混乱させて乗っ取ろうという計画もあったとか。

 

今のキリスト教は違うが、今から400年前の日本の為政者から見たら、キリスト教は国を滅ぼす邪教だったことは事実よ。

 

歴史を評価するときは、今の常識に当てはめず、その当時の常識を踏まえなくてはならない。そして、普遍的な人間の常識にも当てはめる。

 

そんな宗教は今でも過去でも許されない。としたら、秀吉や家康の禁教政策は、日本の植民地化を防いだ、とても素晴らしい政策だったも言えるのよね🙄。

 

支倉常長はヨーロッパでキリシタンになったという。

 

彼は心からキリスト教を信じたのかしら🙄。

 

使節の目的を達成するために、便宜上キリシタンになったのかもしれないなぁ🤔。でも、大きな決心だったことには変わりはない。キリスト教を自分の信条とするのだから。

 

その一大決心をさせた原因は何なのかしら?🤔

 

支倉常長の父親は罪を犯し、閉門となり死罪を命ぜられたそうだ。そして、支倉常長自身も一時期仙台藩を追放された。

 

その汚名を返上するために是が非でもスペインとの交渉を成功させたかったのかもしれない。また、一説の域を越えないが、主君伊達政宗の密命を帯びていて、その密命を成功させるために躍起だったのかもしれない🙄。その密命はスペインと組んで幕府を転覆させるというとんでもないもの。だって国内の争いに外国を入れたら、とんでもないことになるわよ😱。それこそ売国奴よ~😱。

 

私はこの伊達政宗密命説には否定的なのよね。彼の得体の知れない野望や才覚を伝えるエピソードとしては面白いが。

 

何か色々脱線してしまったが😅。

 

信長の比叡山焼き討ち事件とか、秀吉の日本二十六聖人殉教事件とか幕府の禁教令や絵踏や島原天草一揆など、弾圧された側の視点だけではなく、弾圧したり禁教したりした背景もしっかりと説明してほしいわ。そして、その時代の常識にも照らし合わせる。

 

現在では思想や宗教の弾圧も、その思想や宗教が犯罪行為でなければ、絶対に許されない行為だ。侵略行為も許されない。現代でそんなことをしている国があったら、当然非難する。

 

しかし、自由・平等・博愛・民主制・侵略という概念がない時代を、その概念で評価してはいけないと思うのよね🙄。

 

人を裁いたり評価したりする基準は後だししてはいけないのは常識よ。そういった意味では、戦後のあの裁判もそうよね🤔。でも、あの裁判がなければ、日本の戦争指導者を日本人が裁けたかと言うと微妙よね🙄。

 

今の日本人だって、巨悪を裁けないじゃないか。灰色議員でさえ落選させられないじゃないか😱。

 

日本人って、力のある者に優しいのよ。そして弱いものには容赦なく差別しいじめる。寄らば大樹の陰で、大樹の中が白蟻で蝕まれていても、新しい大樹を育てようとはしない。しないどころか、大樹になる前に粗を探して引っこ抜いて枯らそうとする。力のある者を責めたら、それは差別だとかいじめだとか言って庇うこともある。何がと言及しないが😤。

 

でも、私もそういった日本人なのよね。戒めないといけないね😔。

 

日本史としては、支倉常長の慶長遣欧使節の目的が達成されずに良かったと思うのよ。あくまでも今の私の個人的な考えだけれどね。

 

日本がオウム真理教を犯罪組織として壊滅させたように、あの国の為政者たちにとっては、あの地域を自分の領土と主張しているので、あの宗教を犯罪思想と考えて弾圧しているのかもしれない。また、民主主義という考えも同様なのかもしれない。私はあの国には住めないなぁ🙄。あの国の歴史は好きで、あの国に行きたいんだけれど、行く気になれないという矛盾した気持ちになっている😨。

 

いや~、歴史的な視点、現代の視点、為政者や弾圧された人の視点と、視点を色々と変えて考えていたら、こんがらがってきたわ😱。だから、まとまらなかったけれど、今日はここまで😅