宗教談義6~「蜘蛛の糸」釈迦は何に悲しまれたのか~日々への感謝が幸せを招く~
地獄で苦しんでいる。そこに一本の救いの紐が天から垂れ下がっていた。この紐をよじ登れば、救われるかもしれない。
地獄に落ちていれば、百人いたら百人、この紐にすがるだろう。
しかし、現代は天も地もない。
だって地中深く掘っていけば、地球の反対側に出ることが分かっている。私にとっての天は、地球の反対側に住む者にとっては、地中深く掘っていった先にあるのよ。
天も地もなければ、地獄の底で垂れてきた一本の紐は救いではなく、更なる苦難の紐かもしれない。上った先で、さらに騙され餌食になるかもしれない。
しかし、救いだと信じてその紐を昇った者を責めることができるだろうか😔。
救いだと信じて上った先で騙されたとしても、その騙された者を笑えるだろうか🤔。
いや、責めることもできないし、笑うこともできないよ。
人の弱味、そして、人の弱い心につけ込んだ、その紐を垂らした者が悪い。
騙されたら、騙した奴よりも騙された人を責める風潮がある。それはおかしい。
たとえ欲に眩んで騙されても、それは騙した奴が悪いんだよ。
儲け話や宗教を使って、人を騙す人がいる。確かに、騙されないように用心することは必要だ。しかし、騙されたら、それは騙した奴が悪い。そして、儲け話や宗教が悪いのでもない。騙した奴が悪い。
だって騙そうとしなければ、騙す人がいなければ、騙されないのだから。
しかし、騙そうとする人がいるのが人間社会である。こんな性悪説に立ちすぎると、人間不信を起こすが、基本は人間を信頼しないことかしら🤔。そして、信頼したら「騙されるのは覚悟の上」と腹を括らないといけない😔。
それにしても、芥川龍之介が書いた「蜘蛛の糸」に出てくるお釈迦様は、私はどうも受け入れられない。人の心を弄んだとしか思えないんだ😅。あくまでも、「蜘蛛の糸」に出てくるお釈迦様よ。そこは誤解しないでね😌。
釈迦はある日の朝、極楽しを散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだった。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。
暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは、この糸を登れば地獄から出られると考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって大声で「この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。」「下りろ。下りろ。」と喚いた。その途端、蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。
無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。
ウィキペディアより
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E3%81%AE%E7%B3%B8
(この小説に出てくる)お釈迦様は、地獄に糸を垂らし、カンダタが糸を昇り始めたら、他の地獄の亡者どももそれを真似て登ってくることを予測できなかったのか。
予測できなかったとしたら、なんと考えの浅いお方(「蜘蛛の糸に出てくるお釈迦様よ」くどいけれど😅)なのだろうかと思う😣。
本当に悟りを開いたお方なのだろうか🤔。
それとも悟りを開いたからこそ、人間の欲をお忘れになったのだろうか🤔。
予測できていたとしたら、蜘蛛の糸を登っているカンダタ以外の亡者をどうしようとしたのだろうか。全員を救おうとしたのだろうか。浄土真宗であれば、それもありかしら🙄。
「大無量寿経」のこころは「悲願の一乗帰命せよ」であると、浄土真宗の開祖である親鸞は言った。この経典を親鸞は真実の教えとした。
「悲願」とは、世の中の人々を一人漏らさず全員を救済しようとする阿弥陀仏の慈悲の願いである。
「一乗」とは、一つの乗り物である。「帰命せよ」とは「従え」という意味である。
したがって、「悲願の一乗帰命せよ」とは、「阿弥陀仏の悲願である、あらゆる人々を苦しみから救済する一乗の教えを信じなさい」ということだろう🤔。
この作品に出てくる釈迦は「極楽(浄土)」にいる。浄土とは仏の数だけある。その中でもっとも有名なのが阿弥陀仏の「極楽浄土」である。なぜなら行き方が分かっているから。
なるほど🤔。芥川龍之介は日蓮宗系のお墓なのか。であれば、阿弥陀如来ではなく、日蓮聖人が、釈尊の生まれ変わりと信じているだろうか。念仏ではなく「法華経」の題目だろう。
ここは、何か研究したい素材ではあるな🤔。
彼はキリスト教の理解もあった。
私は、この作品に出てくる釈迦は「阿弥陀仏」だと解釈する。そう解釈すると、最後の部分がしっくりとこない。
無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。
釈迦の悲しそうな顔の解釈が変わってくる。
次のようにするとしっくりとするわ😔。
無慈悲に自分だけ助かろうとしたカンダタも、その他の亡者も元の地獄に落ちてしまった。私(釈迦)の悲願(世の中の人々全員救済)を成就するのは何と難しいことかと、ご自身の非力を感じになったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。
となるのだろうか🙄。
または、カンダタの心を試したと解釈するなら、聖書に出てくる造物主に似ている。義人ヨブが義人かどうか、本当に神を信じているかどうかを神は試したのだ。
神の許しを得たサタンは、ヨブから財産を奪い、家族も奪う。ヨブを皮膚病にかけ、そのヨブに対して友人たちは、「神は罪人に正しく罰を与える。貴方の災いは、何か罪を犯したからだ。罪を認めて信仰しなさい」と、全てをなくし、病気にかかったヨブを責めた。
これほどの仕打ちはあろうか。慎ましやかに、神を信じて生活していたヨブに試練を与えたのは神である。このお話は最後はハッピーエンドとなるのだが😅。
カンダタは悪人。
ヨブは義人。
二人は正反対であり、二人を対等に比較したらヨブに申し訳ない。
しかし、阿弥陀仏の悲願は「世の中の人々を一人漏らさず全員を救済すること」だ。
さて、その救済とは、何なのだろうか?迷えるものを目覚めさせ仏とすることだろうか🤔
迷うことが悪いことだろうか。
私は覚者にはなれぬ凡夫である。
迷うことは生きているということである。
生老病死が怖いのは、生きているからである。
人は動物と違い、理性を持ち、思考を持った。動物は、性の欲望のままに生きて、生老病死を恐れていないのかもしれない。
とすると、悟りをひらくということは、動物の本能に帰れということかしら🤔。
【四苦八苦】
生苦とは生まれること。
老苦とは老いて体力、気力が衰えて自由が利かなくなること。
病苦とは病気の痛みや苦しみに悩まされること。
死苦とは、死ぬ恐怖と不安。
後の四苦は
愛別離苦
怨憎会苦
求不得苦
五蘊盛苦
確かに苦しい。
しかし、その苦を感じるのは生きている証として、生きている以上、その苦を甘受しよう。
神にすがるから苦しくなる。
仏にすがるから辛くなる。
神もいる。仏もいる。
しかし、神や仏にすがろうとするから、いけないのだ。神を信じる人は神に恥じぬ生き方をすればよい。そして神に感謝をする。そうすれば神はその人を救うだろう。
大乗仏教を信じる人は、仏に手を合わせ、日々の暮らしを感謝する。
そうか🤔。
キリスト教も仏教も、自分以外のものへの感謝が救いであり、悟りなのかもしれない。
騙されず生きるとは、自分の両手で持てる量を知ることなのかもしれない。そして、今あることに感謝することかもしれない。騙されるのは、今ある以上のものを簡単に得ようとするときが多い。日々の暮らしに感謝していれば、騙されることは少なくなるのかもしれない。
しかし、大きな悲しみや、日々の暮らしの不安、病の苦しみに、人の皮を被った悪魔が近寄ってくる。そのとき、悪魔から逃れるのは難しいことだ。
生きるとは、苦味があって当然なんだと、私は自分に言い聞かせよう。
これまでの「宗教談義」は、こちらから遡っていけるわよ👋😉
(追伸)
宗教談義は、宗教に関しては、ズブの素人の浅学な私が、聞いたり、読んだりしたことを、主観的に考えたものです。専門的なものではありません。知識が間違っていたらご指摘ください🙇。