つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

シャボン玉~こわれて消えた~

シャボン玉 飛んだ

屋根まで 飛んだ

屋根まで 飛んで

こわれて 消えた

シャボン玉 消えた

飛ばずに 消えた

生れて すぐに

こわれて 消えた

風 風 吹くな

シャボン玉 飛ばそ

作者:野口雨情(作詞)

中山晋平(作曲)

幼い頃、シャボン玉の歌を聞くと、なぜか物悲しくなった覚えがある。その頃は理由が分からなかった。その後、この歌詞の背景や意味を知るようになると、なるほどなぁと思ったのよ。

 

シャボン玉で子どもが遊ぶ様子が、生まれて間もなく亡くなった子の魂を鎮めるという意味があるとも言われているそうだ。

 

シャボン玉は生まれて間もない子どもを表したものなのよ。そのシャボン玉で遊ぶということは、生まれてまもなく亡くなった子どもたちと遊ぶということかしら。

 

私はね。「こわれて」は、「壊れて」ではなくて、「請われて」だと思うのよ。いや、「壊れて」と「請われて」の掛詞なのかもしれないと思った。

 

生まれてまもなく亡くなる子は、神に請われて天に召されるのかもしれない。

 

しかし、虐待死は痛ましい…。

神に請われたわけではなく、悪魔と出会ってしまった。そして、その悪魔が実の親の場合が多い。

 

この世に生まれて、最も安心を得られる存在の親からの仕打ち。仕打ちを受けても、頼らざるを得ない、いや、信じ頼ろうとする幼子。

 

しかし、考えてみると、その親もまた不幸を背負って生きていることも多い。負の連鎖である。

 

神に請われて生まれて数日で亡くなった子もいれば、汚部屋の中で衰弱死した子もいる。

 

前者は、亡くなった子の親は張り裂けるぐらいの悲しみを背負うが、幸福も不幸も感じず物心つかずに亡くなっただけ、その子にとっては救いなのか。

 

しかし、後者はこの世の地獄を味わって亡くなっている。成仏するのだろうか。

 

虐待死の報道を見ると、ホント気持ちが落ち込んでくる。腸も煮えくり返る。

 

不幸になるためにこの世に生まれてくる者はいないはず。しかし、世界を見渡せば、食べるものもなく病院にもかかれずに亡くなる子どもはたくさんいる。

 

そう考えると、今、自分には仕事があり、家があり、家族がいて、毎日同じように生きていることは有り難いことなのだろう。ありがたいとは「存在し難い」という意味も込めている。言い換えれば、生きていることは貴重なことで尊いことだと、私は自分に戒めなくてはならない。

 

 

 

そう、生きていることは貴重なことで尊いことなんだよ。今、苦しいと感じていることは、大したことではないんだよ。いや、こういう思考が自分を追い詰めることになることも分かっている。大したことであるが、思い詰めずに生きていくこともできる。

 

「人間の仕事は生きることだ」とは、含蓄のある良い言葉だなぁ。

 

でも、あまりにも苦しければ、その仕事をやめて新しい仕事を探すこともできる。しかし、それがなかなか出来ない者もいるが、転職するという選択肢はある。

 

しかし、生きるという仕事は転職できない。生きることに苦しんでいる人には、何と過酷な仕事だろうか。

 

「苦しければ苦しいと言っても良い」とか「苦しければ逃げろ」という人もいるが、日本はそれができる社会ではない。いや、日本はそれがしづらい社会と言い換えた方が良いだろう。「苦しい」と言ったり逃げたりしづらい社会だから自殺大国なんだよ、日本は。

 

例えばよ。あくまでも例えばの話だが、家族がいる50才近くのローンを抱えるオヤジが、仕事に煮詰まってしまい、朝起きられなくなったとする。このオヤジは、その仕事から逃げたら、収入が途絶える。ローンも払えない。一家離散の可能性だってある。だから逃げられない。でも、逃げたい。そしたら、その場合、死の選択が頭を過るのは、理屈ではいけないことだと分かる。しかし、死の選択が頭を過るのは、私は共感できる。自死についての私の見解はこちらのブログに書いているわ👋。

 

生きる意味についてのブログはこちら👋

 

多くの人は、もがきながら生きている。

 

不謹慎であるが、神に請われて天に召される方が、その子にとっては幸せなのかもしれないと思ってしまう自分がいる。

 

私も2才のときに病気で生死をさ迷ったそうだ。幸い助かり、その後、46年生きてきた。自分のこれまでの人生を楽しいと辛いに分けたら、どちらの方が多いだろうか。仕事においては、辛く満たされない年の方が断然多い。

 

しかし…。

そんな大きなことでなくて良いんだ。

 

美味しいものを食べたときに幸せを感じるだろう。

 

面白いテレビを見て笑っているときは幸せを感じているはずだ。

 

私が今、一番幸せを感じるときは…。

 

中1のチューの背中を洗ってやっているときだ。ホント、感じるのよ。幼いときは、こんなに成長するとは思っていなかった。たくさんの課題を持って生まれてきた我が子。情けなくも、将来を案じて泣いたこともあった。今でも不安はいっぱいだが、彼が幼いときに比べたら雲泥の差。当時は医者からも匙を投げられたのだから。

 

仕事では何もキャリアを積めなかったけれど、この世に誇りを持てるものがある。彼の背中を洗ってやっているときは、よくここまで育ってくれたといううれしい気持ちになるのよ。

 

こわれて消えたシャボン玉は幸せであろうはずはない。だって幸せを感じず亡くなったのだから。

 

命に差がないとはいえ、犯罪者や悪人がノウノウとこの世にいて、まだ生きたいと思う善人や物心もつかずに亡くなる子もいる。理不尽なことだなぁ。

 

シャボン玉 消えた

飛ばずに 消えた

生れて すぐに

こわれて 消えた

風 風 吹くな

シャボン玉 飛ばそ

 

(追伸)ホント、ここ最近、気持ちの浮き沈みが大きいわね。最近のブログを振り返って読むと、それが分かるわ~😅。そうよ。日月が連休で、月曜日の午後は特に憂うつなのよ😌