平等と公平と・支援級と普通級と
今日、私が気になったブログがこちら👋😄
って、ブログがNot Foundになっていたわ。どんな内容だったかと言うと、「特別支援学級はズルい。知的障がい者を支援するんなら、頭のよいクラスの吹きこぼれに支援しろ」という内容だったかと。
○○ (id:□□)さんは、斜に構えた視点で、世の中を切る😎。そして、孤高の雰囲気があり、私の気になるブロガーさんの一人なの😄。
(1)平等と公平
人は「公平」と言う視点は理解できるが、「平等」という視点を理解するには理性が必要なの。
まぁ、私は理性に対しても懐疑的なところがあるのだが、それは機会があったらブログに書くね😉✨
ボーナスの原資が30万円ある。怠ける従業員、普通の従業員、トップクラスの売り上げの従業員。みんなで仲良く10万円ずつ分けたら…。
う~ん🤔。
私がトップクラス営業マンだったら釈然としない😣。
でも、これは平等よ😅。
一方で怠け者はお情けで1万円、普通の職員は9万円。トップクラスには20万円のボーナスだったら、怠け者は不満や妬みを持つが納得せざるを得ないかなぁ🤔
これは、前にも書いたことだけど、公平には納得感が大切なの。平等は、納得感なんて必要ない。だって造物主から与えられたという形而上の思考から生れたものだから😌。
公平は人間的な思考。だから納得感が大切なの。
平等は造物主的な思考。だから納得なんて必要ない。
と私は解釈する🤔。
平等は、身長が150㎝の人も180㎝の人も👥、300mを越える東京タワー🗼も、3000m越える富士山🗻も、月から見たらほとんど誤差である、変わらないという視点が必要なの。
だから年収100万円のフリーターも、年収が億を越える実業家も、払っている税金の額は全く違うのに、選挙権は1人1票なのよ。
(2)特別支援学級
もとは特殊学級と呼ばれていた。「特殊」って「普通ではない」という意味なのよ。差別につながる言葉でもあるの😣。だから、特別支援学級と名前を変えた。
知的障害者は教育を受けるのに特別な支援が必要なのよ😓。
教育を受ける権利と機会は、障害があるなしに問わず、どの人にも平等に持っている。
平等に持っているにも関わらず、その権利を普通級で行使できないから支援をしていただいている。支援級は小1~小6まで同じ部屋で学んでいるのよ。
権利が行使できない人が権利を支援をしていただいて行使している姿を見て、権利を支援を受けずに行使できる人がズルいと感じないようにしないといけないと意識している😊。
私も人間。
だって人間だもの。
町中で、なんか贔屓に感じたり、特別扱いなんてズルいと思ったりすることがあるよ🙇。
そんなとき、理性を働かせるの。あれは、特別扱いではないんだって。ふきこぼれている子とは別次元のことだって。だから、特別支援級があることと、ふきこぼれの問題を一緒に考えないのよ。
障害者のノーマライゼーションの課題と、健常者のさらなる支援の問題は別個よ😄。
(3)個に合わせた教育を
教育とは教え育むこと。educationの方が良いわね。原義は「引き出す」だわ。
今の日本の教育制度そのものが、教育の個人主義にそっていないものを採用しているのよ。
私の今の教育制度に対する認識は「大量規格品生産工場型教育」である。詳しくはこちらのブログ👋
抜粋するね。前に読んだ方は読み飛ばしてね😅
工場では
生産工程に従って、ベルトコンベアで運ばれてきたものに手を加えていき、規格品が大量生産される。
学校では
カリキュラムをもとにシラバスを作り、そのシラバス通りに授業を受ければ「規格人」が大量生産される仕組みだ。ベルトコンベア式の教育と呼べる。
そこで学んでいる子どもの中には、精神を病む子がいて当然。工場なら機械の生産だが、学校は心を持つ子どもの教育だ。製品を作るのと同じようにされたらたまったものではない。これでは不登校も生まれるし、ストレス耐性のない子はいじめたりいじめられたり、社会不適応になったり、果ては自死にいたったりする。
そういう大量規格品生産工場型教育を、普通科教育の教育方法に採用しているのが日本だと理解している。(普通科教育の厳密な定義は置いておく)。この「普通」という言葉のチョイスが良くない。普通とは広く通用する状態のこと。日本人は「普通」≒「みんな」ととらえ、普通でないと異常とらえる。没個性、みんな一緒でなければならないと思ってしまう。普通科教育を「普通の子が学ぶ教育」と誤解し、普通科にいないとダメだと親は判断する。普通科教育は「広く通用する科目」を教えるという意味であり、決して普通の子が受ける教育ではない。ここを親が誤解すると子どもに悲劇が生まれる。
(「つれづれなるままに」より)
ふきこぼれの問題を解決するのは、「支援」ではなく、「教育制度改革」なのよ😅。
○○さんと結論はほぼ同じなの。そのアプローチが異なるの😊。
異なる点は、特別支援学級という障害者の支援と、ふきこぼれの支援は、同じ平等の課題であっても別次元で捉える点よ。
結論はほぼ同じ。
ここまでできればOK!という基準を満たしていれば放置されて、可能性を広げるための支援がされない日本教育。
1つ変えるとしたら、「支援がされない」ではなくて「制度ではない」なのよ。
登山には複数のルートがあるわ。ゴールが同じなら、彼はAのルートを進み、私はBのルートを進んでいる。
多様性を認める世界では、どちらも認め合うことが大切だと、私は肝に命じている😔。意識しないと、自分の正しさで凝り固まってしまうから😎
(4)理想の教育制度
難しいわ~😅。でも叩き台になるかしら?ざっくりとしたものね😉
①集団一斉授業からの脱却
意見を言い合う場としては集団も良いわ。でも、基本的な知識や理解には不向きだなぁ。この黒板一斉授業ってお国の効率化政策の賜物よ。明治時代の富国強兵から変わっていないんだから。
今だったら、知識の理解だったら、というかいわゆる普通科目は、全て映像でも構わないかも。今は少子社会だから、集団教育自体が成り立たない学校もある。
②無学年制+ネットの活用
この年齢にはこの内容を教えなければならないという考えが、教育の個人主義に合わないの。
子ども一人一人に合わせようとしても、教員の人数が足りない。
ならば映像やネットを大いに活用すればよい。そうすれば、ふきこぼれも落ちこぼれも生まれにくい。中学生が分数の計算を習っても良いし、小学生が微分積分二次関数を習ってもよい。
「微分積分二次関数~絶体絶命~赤点ね🎵」🎤😹。今振り替えると、すごい歌だわ😅。
話が脱線した🙇
でも、こんな制度の事を訴えても、目の前の生徒が不利益を被っているのだから、今は、支援という形で何とかしなくてはならないのかもしれないなぁ🤔
(5)最後に
私は考えすぎなところがあって、少し曲がった心のフィルターがあることを、先に伝えておくわ。書くべきかどうか迷ったけれど…。
うちの子が通っている支援級。通わせたくて通わせているわけではない。苦渋の決断だったの。
親ゆえの、夫ゆえの心配事190213② - つれづれなるままに