バスの中での出来事(つれづれなるままに心理を語る⑦)
(1)バスの中での出来事
私はバスの前方に立っていた。終点の駅のロータリーが近づいてきた。すると、私の目の前に座っていた杖を持った男性が立ちあがり、バスが走行中であるにも関わらず、私より前の降車口近くに立とうとした。私は、大人げなくムッとしてしまった😒。
何故かって?🤔
理由は二つあるの。
1つは、ずっと立っている私よりも先に降りようとする性根が許せないから。だって、たとえ最後に降りたとしても、最初に降りた人との時間差は1分もない。だから、立っている方もそんな腹を立てる必要もないのだが😅。「時は金なり」と言うしね😌。でも、ずっと立っている人に対する配慮があっても良いだろう。しかも、今回は足の悪い人だ。
そこで、二つ目の理由。
足が悪いのにも関わらず、走行中に立つ行為の危険性とほんのちょっとの時間を稼ぐことを天秤にかけることもできないことに苛立ちを感じたの。事故の危険性を高めてほんの数秒を惜しむって割りに合わないよ。
だから、私は彼に言ったの。
「走行中に立って前に行くのは危険ですよ。それにあなたは足が悪いんでしょ。」
配慮のない言葉だった。しかし、「足が悪い」ことを重視していない彼に私は腹を立てていた。急ブレーキがかかり、彼が転倒したら、彼が怪我することはもちろん、運転手は車内事故で罰せられる可能性は高いし、バスが止まり、私たちは遅れてしまう可能性がある。周りに迷惑をかける可能性があるのにも関わらず、ほんの数秒惜しむのが、どうも腹が立って、腹が立って…。
彼は
「杖をついているので迷惑かと思って…」
と言い訳をしていた。
私は、
「杖をついていることは全く迷惑なことではないですよ。」
と伝えて、座らせた。
終点につき、私の前に座っている彼に「急いでいるのでしょう。お先にどうぞ。」と言ったら、彼は「結構です」と言って座っていた。
その直後のツイートがこちら👋
@LOAaCeAPJ8gqmb0さんのツイート: https://twitter.com/LOAaCeAPJ8gqmb0/status/1132969669327855618?s=09
私はそのときは腹を立ててたの。バスが停まったので、先を譲ったら、「結構です。」というなんて。だったら走行中に立つなよ~と。
(2)他者の立場に立ってみる
しかし、後で、この出来事が苦く感じてきた。そして、彼の「杖をついているので迷惑かと思って。」と言う言葉が、苦く鼻につくような酸味がかった胃液となって、私の口の中や頭を反芻した。
彼の立場に立ってみよう。早く降りたいという気持ちはある。しかし、足が悪い。バスが停まって立ち上がると、動作が遅く、周りの人に白眼視された経験があるのではないか。じゃあ、足が悪くない人が降りてから降りろとでも。それもおかしい。足の悪い人は常に最後に降りろというのは理不尽である。
彼は、早くバスを降りたいという気持ちよりも、誰にも迷惑をかけずに下りたいという気持ちが強かったのではないかと私は思えてならなくなった。実際に、彼がそういう気持ちであっても、そして私がその気持ちを知っていたとしても、私は彼に同じ言動をとっただろう。しかし、言動は同じでも、違う点がひとつある。それは…、表情である。私はあのとき、あからさまに嫌な顔をしたはずである。彼の心情を慮ると、あんな表情をしてはいけない。
(3)ノーマライゼーション
私の推測が正しければ、障害を持つということはホントに肩身が狭く感じることなのかもしれない。彼らに肩身を狭く感じさせる原因は、世の中の「健常者」と呼ばれる人々だ。その人々の中に、私も入っているのだろう。私は、そういう人々の仲間にならないように意識している。もっと意識しないといけない。
エスカレーターで大きな足音を響かせて、老人の後ろにピタッと立ち止まりプレッシャーをかけるスーツ姿の若者。
歩道で歩行者にベルを鳴らす自転車に乗っている女性。
相模原障害者施設殺傷事件の加害者の男性の気持ちが分かると言った当時高3生で看護師を目指していた女の子。
ノーマライゼーションって、障害者と健常者がお互いに特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが本来の望ましい姿であるとされる。
私ね。チューを育ててて考えることは、「特別に区別」ではなく「差別」にした方が良いということ。やはり、障害者は他人の助けが健常者と言われる人よりも必要で、区別が必要なことがある。いまや、零細で商売を始めることが困難なように思える。零細で飲食店を始めて、狭い店舗で車イスが入れなかったら、それはいけないのかなぁって思ってしまうこともある。何か難しい。でも、ひとつ言えることは、そういう場面に遭遇したら、優しさと配慮をもって対応するということかなぁ🤔。ノーマライゼーションって、多様性を認め合う優しさが根底にあるのよ。
だから、弱者に厳しい一般人ばかりを責められない。
病人や障害者、子どもや老人に厳しい発言を繰り返しても落選しない政治家。疑惑をはらさず居直る方もいる。
弱者に厳しい人は、自分が弱者になる想像力が欠如している。私は人間として、そういう人こそ障害者、もしくは、欠陥人間と心とブログで叫んでいる。しかし、私も欠陥人間である。でも、その欠陥を自覚し、弱いとされる方に優しくありたい。
杖をつく方よ。あなた方は迷惑ではない。杖は眼鏡と同じ。あなた方は、眼鏡なんかと同じにするなと思うかもしれないが、私は思う。眼鏡をするのと同じように杖をついたり車イスに乗ったりするんだよ。当たり前のことなんだよ。杖をつくことが、車イスに乗ることが、心のしょうがいを持つことが、生きにくさを感じない世の中になってほしい。チューを育てている私にとっての切なる願い。
だから、今回、私のあからさまな嫌悪の表情をしてしまったことを懺悔する。これから幾度も、人間としての欠陥を露にすることだろう。その度に、このブログを読み返そう。人の行為を責めるなら、まず我が身からと。
(4)人の心理を学び生かす者は
想像力と他者意識だと考える。本当は国語の中で育むものだと思うのだが、心理も中学生の必修にすれば良いのになぁ。お国の思惑が入りやすい道徳を心理に変えれば良いと考える🤔。
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アンガーマネージメント(つれづれなるままに心理を語る⑤) - つれづれなるままに