つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

つれづれなるままに国語を語る⑦190310②

前回までのお話

①国語力の土台は語彙力である。
②語彙力には言葉の数だけではなく、言い換える力も入る。
③語彙力をつける方法は、覚えた言葉を使ってみることである。
④論理とは論証の組み立てであり、思考の妥当性が保証されるものである。
⑤読解は客観的読解力が大切だ。

⑥ジャンルの違いは、主張方法の違いである

詳しくは下のブログをお読みください😄


つれづれなるままに国語を語る⑥190308① - つれづれなるままに

 

(1)論理の飛躍

なにも、サハラの奥だけではあるまい。たぶん、世界中どこへいっても、こうした芭蕉の句は同じような反応を起こすことだろう。なぜなら、ほとんどの民族は、十の説明から一つのものを導き出す、というのが普通なのだから。ところが日本人は逆に、一つの事柄から十の情報を得る、いや、得ようとするのだ。これは、俳句に限ったことではない。日本的会話、日本的叙述、日本的論議、全てにわたって言えることだ。そこで、日本人は一を言って、相手に十の理解を求めることになる。

だが・・・、

この言葉!生き方を考える50話 (PHP新書)

この言葉!生き方を考える50話 (PHP新書)

 

(森本哲郎「この言葉!」より)

 

今回も、中3生の授業から。

まず、この前の段落に、サハラに住む遊牧民族に、「古池や蛙飛び込む水のをと」を英語に訳して教えたら、それは単なる事実を伝えているに過ぎない、それが詩だとは!と驚かれたという経験が書かれている。

 

さて、みなさん、ここに引用した話を納得するかな。?今日は「論理の飛躍」についてお話しするわよ👨‍🏫

 

前回、論理には必ず飛躍が入ると伝えたね。ある事実を一般化する際には、飛躍が入る。入らざるを得ないのよ😅。論説文って、何度も飛躍を繰り返しながら、主張していくものよ。

 

今回の文はどちらかと言うと、随筆かなぁ🙄。随筆文はあまり、論理性を求められない。体験したことをもとに、考えたことや感じたことを書くのが随筆文だから。だから、随筆文は、論説文よりもさらに飛躍が入って良いものなのよ😄

 

まず、サハラの遊牧民芭蕉の句を教えて驚かれたのは筆者の体験であり、事実である。その事実を

 

「サハラの奥だけではあるまい」

 

と飛躍させた。

世界どこへ行っても芭蕉の句に対して、この遊牧民と同じような反応をすると。

 

その理由は、今度は、世界では「十のことから一を知る」、日本は「一のことから十のことを知ることを求める」と対比させた。この対比も、相手に自分の主張を納得させるのに効果があるの。相手に納得させて、畳み掛けるように、

 

「俳句に限ったことではない」

 

と、日本全体の気質に一般化した。この一般化させるときも、飛躍が入るの。

この飛躍させたときに、突っ込みを入れると、頭の体操になるのよ

 

じゃあ、一つだけやってみるね😎

でも、私の論も当然飛躍が入るから、突っ込んでくださいね😁

 

詩って文学だよね。芭蕉の句は文学作品、もっと広い範疇にすると芸術作品と言えるね。

 

芸術作品は、受け取り手が自由に解釈しても良いものよ。

 

事実を述べただけが詩になることに驚くのなら、写真や絵画についてはどうなんだろう🙄

 

写真は、写真を撮る者が目の前にある事実を写したに過ぎない。俳句を「ただの事実を述べただけだ」という人は、たとえば、山の風景の写真を見て、「それが何?」というのかな🤔。言わない可能性が高いと考える。自分の体験や経験を写真に切り取られた事実に重ねて、感動するのよ。

 

俳句も、作者が見た事実を、読み手の体験や経験に重ねて、感動するものなの😄。

 

俳句は写真を言葉に変えただけで、その味わい方は似ているものなのよ。

 

俳句に驚いた遊牧民に、「へ~、それじゃあなた方は、写真を見て感動しないんですね。」って、私だったら言ってやるかも。他人が切り取った事実を、読み手が自分の経験を通して、色々と感じとることって素晴らしいと思うのよ✨

 

「日本人の会話」「叙述」「論議」に結びつけるのはなら、文学作品を出すのではなく、会社や学校や政治の世界の一場面を例にした方が良いんじゃない。でも、随筆文だから、そこまでの論理の一貫性は問われない。

 

ついでに、前にブログで言及したけれど、古池は事実ではなく、芭蕉が思い浮かべたものであるという解釈もあるのよ。

だって

「古池に」ではなく、「古池や」なの。蛙が飛び込む水の音がしたら、ふと古池を思い浮かべたよってね。外国人にそこまで説明してほしいわ~😎

 

と言ってきたけれど、私の主張にも無理があるのよ。あと、私は森本さんの意見に同意よ。私も、彼と同じように話すもの。

 

自分と同じ考えでも、あえて反対意見を考えたり、突っ込んでみたりする。そうすることで、頭が柔軟になるの。

 

(2)SNS

また、SNS考なんだけど、みんなで♥️や👍をつけあっていると、自分の考えに凝り固まってしまうことがあるのよ。ちょっと自分と違う意見を言ったら猛烈に批判したり、ブロックしたり。

その象徴的な体験は、一万名以上のフォロワーのいる○○先生とのこと。教育の問題点を具体的にズバリと指摘して人気な方。どんな内容だったか忘れたけれど、彼の発言に対して、結構飛躍があるので、「こういった方が論理的ですよ」とリツイートしたら、私に良いねが入った。そしたら、即ブロックされたの。まぁ、たかたが300そこそこしかフォロワーがいないツイッタラーに言われて、プライドが許さなかったのかもしれない😅。まぁ、私だったら、「ご指摘ありがとう。でも、非論理的な飛躍ってテクニックだから😎」って返信するだろうなぁ。

あくまでも理性的にが前提だけれど、私に違った意見をぶつけられるのは心地よい。だって無料で教えてくれるのよ。それって感謝しかないじゃない💕

 

承認欲求を満たすためだけにSNSをやるのは、精神衛生上危険な面もあると思うの。自分の考えに凝り固まってしまう可能性もあるから😔

 

だからって、☆が要らないわけではないの。みなさん沢山つけてね~😭

 

って、矛盾した心を持つオヤジでした😁