つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

何者にもなれなかった男の矜持

僕は何者になりたかったのだろうか?

 

 

幼いときは警察官になりたかった。警察官である父が誇らしかったからだ。しかし、歳を重ねるにつれ、警察官は自分がなりたい職業ではなくなっていった。

 

 

小学2年生のときに書いた作文でなりたい職業について3つ書いた覚えがある。

 

 

 

ぼくは、しょうらい、そうり大じんかけいさつかんかマンガ家になりたいと思っています。しかし、そうり大じんになるには話がうまくないし、マンガ家になるには絵がへただし、けいさつかんになるには、足がおそいからむりかもしれない。でも、にがてなことごうまくなるようにがんばろうとおもいます。

 

 

 

もうね。40年前のことよ。でも、こんなことを書いたことはなぜかハッキリと覚えている。

 

 

小学4年生のときにリトルリーグに入ったけれど、運動音痴でパットしなかった。しかし、小5のときにキャッチャーに抜擢された。

 

 

 

当時は子どもが多い上に野球が人気で、野球少年がたくさんいた。私が住む市内にはリトルリーグのチームが3チームあり、私のチームには60人から70人いて、1軍から4軍まであった。どの軍にいても試合に参加できる。

 

 

 

私は3軍の正捕手だった。試合にはよく敗けたが、試合に出られるだけで楽しかった。

 

 

 

小6のときのリトルリーグの納会で、「監督賞」をもらえたのよ。結構大きな賞なのよ。結果よりも頑張りが評価されたのね。

 

 

 

小学校では児童会長を務めていた。

 

 

 

中学では陸上部の主将で生徒会副会長であった。実力試験の偏差値も高く、東大に行けるかなぁとうぬぼれていた。

 

 

 

父の勧めもあり、警察官僚も良いなぁと思っていた。

 

 

 

高校時代、挫折して自分を見失った。

 

 

 

浪人したとき、憧れる英語の予備校の先生がいた。その人の名前は西谷昇二先生。分かりやすく語りが上手かった。当時の私は西谷信者だった。

 

 

 

大学生になり、塾の講師や家庭教師の仕事に明け暮れた。

 

 

大学4年のときは母校に教育実習に行った。私は地歴と公民の教師の免許を取った。しかし、当時の公立中の社会科の教師の試験の倍率は300倍を越えていた。それで社会科教師になるのを諦めた恥ずかしい奴なのよ、私は。

 

 

 

それで塾の講師になることにした。父はあまりよい顔をしてくれなかったが、教育実習での授業の様子をカセットテープに取って聞かせたら、「まぁ、こんなに生き生きとやっているのなら」と言い、正社員なら良いと許してくれた。

 

 

 

こうしてみてくると、易きに流されたきらいはあるが、私が何者になりたかったのかが見えてくる。

 

【なりたかったもの】

①警察官 ②総理大臣 ③漫画家 ④東大生 ⑤社会科教員

 

【なったもの】

①児童会会長 ②キャッチャー ③陸上部の主将 ④生徒会副会長 ⑤塾講師

 

 

 

さて、何が言えるか。

 

 

 

そういえば、高校生のときに

 

「周りが幸せになって自分が幸せになる」

 

と言ったり

 

自分の好きな言葉は

 

「Do to others as you would be done by.」

 

と言ったりしていた。

 

 

 

仲間は私に「そんなの建前だよ」と言い、鼻白んでいたわ。

 

 

 

私の原点って、挫折した高校時代にあると思う。あの挫折がなかったら、教師という職業を目指さなかっただろう。その亜流の塾講師になってしまったが、あんまり悔いはない。

 

 

 

私がなりたかったことや、やってきたことの多くに共通することは

 

 

 

人のためになる。

人につくす。

人に影響力がある。

人に認められる。

自分が中心となる。

 

 

 

などが挙げられるかな🤔。

 

 

 

保護者や生徒から嫌われたことも多いのよ。不器用だし、がさつなところもあるし。まだまだだけれど、何とか49歳までやってきたわ。

 

 

 

今の自分を高校生の自分に見せたら、高校生の自分は今の自分に何と言うだろうか。将来に悲嘆するだろうか。

 

 

 

「死んでいなくて良かったよ」かもしれない😅。そして「おれ、もっと頑張るわ💦」と付け加えるかもしれないなぁ😐️。

 

 

 

アラフィフのイケていないオヤジの「自分は何者になれたか」という問いの答えは

 

何者にもなれていなくても、仕事をして、給料を得て、家族を持ち、父が「母を頼むぞ」と私に言い残したことを忠実に守り、妻を愛し、課題の多いチューを愛情を注いで育てているという矜持を持つ者にはなったということだ。