杓子定規な正しさ~なんだかまとまらなかったわ😅~
久しぶりにバスの中での話なんだけれどf(^_^;。
バスは空いていた。それでも、最後部の5人席の真ん中にドデンと座るのって、どういう神経をしているのかしらって私は思ってしまうのよ(-_-)。それも足を組んで…。
一方で、特に電車で、端席の奪い合いってあるわよね(/--)/。端席が空いて私がそこに座ろうと思うと、座っている人がすすすっと横滑りして座るのよ。それは私の前の席なのよ!Σ( ̄□ ̄;)。
って、良いことよりも気になったことをブログに書いてしまう悪いクセね(^o^;)。
詳しくは書けないんだけれど、ホントビックリしちゃうことが通勤途中であったのよ( ゚ロ゚)!!。
自分の方が正しいと思うが、少し気になって妻に聞いたら、それは相手の方がおかしいと言ってくれた。職場で大学生講師に聞いたら、私と同じ感覚だった。
そうよね( ´Д`)=3。
妻や職場の講師が私と似た感覚であっても、それが正しいとは限らないし、私が話した出来事は、私の主観が入っている。だから、自分の正しさを誇張している可能性もある。
そう考えると、正しさって何だろうって思う(・_・?)。
正しさを思い付くままに分けると
①杓子定規の正しさ
②主観的な正しさ
③力ずくの正しさ
④普遍的(客観的)な正しさ
⑤相対的な正しさ
の5種類があるかしら🤔。
杓子定規の正しさとは、ルールやシステムに拘ること。「そうあるから、こうあるべき」と考える正しさである。
どんなに人が困っていても、「そうある」という前提が大切で、だから「こうあるべき」という信念に固まってしまう。
キリストが当時のユダヤ教を改革しようとしたのがここよね🤔。
旅人が、強盗に襲われて半殺しされて、倒れていた。通りかかった祭司は、倒れている人を無視して通り過ぎた。次に通りかかったレビも、見て見ぬふりをして通りすぎた。どちらも、彼を助けようとはしなかった。三人目に通りかかったサマリア人が、半殺しにされた男に手厚い介抱をした。イエスは、この三人のうち、旅人のよき隣人になれるのは誰かと尋ねた。
(ユダヤ教の)司祭は、ユダヤの人々を教え導く人。
レビ人は司祭を補佐する人。
サマリア人はユダヤ人から忌み嫌われている人なのよね。
イエスからこの質問を受けたのは律法学者である。律法学者はユダヤ教の教典を記録し解釈する人なのよ。
イエスはユダヤ教の改革者。当時のユダヤ教は律法主義であった。
目の前に怪我人がいる。
しかしその怪我人を助けない。
なぜならその日は安息日で、働いてはいけないと律法に書いてあるからである。
例え話で、ユダヤ教の司祭やレビよりも、ユダヤ人に忌み嫌われているサマリア人の人が正しいよね~って、なんたる皮肉❗️😅。
いや、この当時、こんなことをするのは命がけよ😱。