つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

感謝の言葉が社会を変える~平等思想は大切だけど平等原理主義は失敗する😣~

停留所で車イスの若い男性がバスに乗ってきた。

 

運転手はテキパキと車イスが入るスペースを作り、車イスの男性に

「お待たせしました。」

と言って、バスに乗せていた。

 

「お待たせしました」という運転手の言葉が良い。車イスの男性の感謝の言葉が聞こえなかったけれど、きっと言っていただろう😄。

 

これが当たり前の光景になれば、世の中が住みやすくなる。

 

当たり前だから、感謝しないっておかしいわよね🤔。

 

コンビニで買い物をする。店員がレジ打ちをする。いや、レジうちとは言わないかもしれないわね😅。バーコードだものね😌。

 

店員が「ありがとうございました」と言うのが当然なら、お客も店員に「ありがとうございます」と言うのは気持ちの良いことよね😄。

 

感謝するって大切なことよ。

確かにバリアフリー社会を目指さなくてはならないと思う。わたしだっていつ体が不自由になるか分からない。

 

健常者が何も意識せず当然のことのようにやっていることを、障害者はなぜ感謝しなくちゃいけないのという声もあろう。

 

そう考える人は、「当然のことは感謝しなくてよい」と思うことが間違っていると思う🤔。

 

「俺は客だ。お金を払っているんだからやってもらって当然だ。」

 

「教師は教えるのが仕事でしょ。だから、教えてもらって当然だ。」

 

「俺は生まれたくて生まれたんじゃない。だから、親に育ててもらって当然だ。」

 

当然といったら当然なんだけれど、そうなると何だかギスギスしないかなぁ😓。ギスギスと感じない人もいるかもしれないし、ギスギスしても良いと思う人もいるかもしれない。しかし、私はギスギスしていると感じて嫌なの😣。そして、そう思う人の方が、情緒的な日本人には多いんじゃないかしら🤔。

 

もしも、私が車椅子生活を送っていて、普段行きなれていない駅を降りなければならなかったとしたら、まずネットで駅の情報を調べるなぁ🙄。そして、前日「◯◯駅で降りたいんですけれど、車椅子なので手を貸していただけませんか。」と電話一本入れる。

 

これは手間なのかしら?手間だとしても、私はそうする。だって完璧な社会はないから。

 

そうなのよね🤔。

完璧な社会を求めると、原理主義になるのよね。原理主義になると、支持は広がらない😓。

 

その上、自分の所属する組織のバリアフリーが進んでいないとしたら、なおさら支持は広がらない。

 

「お前だって論法」はおかしいという。自分のところはバリアフリー化していないのに、他にバリアフリーを強く求めるのはおかしいというのが「お前だって論法」だそうだ。

 

「問題提起自体が正しければ、その問題提起した人の素行や背景は問題ではない」というのは私は正しいと考えるが、正しいから支持が広がるってわけでもないのよね🤔。

 

だって感情があるんだから。

 

だから、あの人(名前はあえて書かない)のやったことは、私は支持しない。支持しないが、バリアフリー社会は支持する。

 

社会主義や共産主義が失敗した原因の1つは、人間の感情を踏まえず、平等原理主義を掲げたから。そして、平等原理主義を掲げたのに、土地や人を管理する官僚という階級があったから🤔。

 

バリアフリーも、健常者と障害者は平等なんだけれど、平等原理主義になると、うまくいかなくなっちゃうんじゃないかと危惧する。障害を持つ子の親として、ホントに危惧するわ😣。

 

我が子チューには、感謝を忘れないように教えている。私もチューに対しても「ありがとう」を意識して使うようにしている😄。

 

私は急激な変化を求めない。急激な変化は、それが正しいものだとしても、歪みが生じる。よい方向に社会が変わってほしいが、緩やかでよい、社会の変化😔。