戦争と平和と憲法と190217再投稿(ブログセレクション)
「政治と宗教の話はするな。炎上🔥の元となる」と言われる😅。それが分かっていて、あえて書いてみる。あくまでも私見。そして、なるべく客観的な事実をもとにと努力する💦。押し付けようとは思っていない。理解不足や飛躍しすぎな点は、ご容赦ください🙇
(1)戦争と平和
「戦争する」と言えるが「平和する」とは言えない。「今日は平和な日だなぁ」と言えるが、「今日は戦争な日だなぁ」とは言えない🙄
そう!😃💡
戦争は「戦争する」という動詞になる。人の行為である。
平和は「平和だ」という形容動詞になる。様子や状態である。
戦争を絵に描きましょうと言うと、戦車や銃など兵器や殺し合い、具体的。
平和を絵に描きましょうと言うと、手と手を繋ぐ絵とか、鳩とか、抽象的。
戦争をしない状態が平和。行為は「する」のが簡単で、「しない」のは難しい。
動物は争うのが本能だと考える。だから、理性という歯止めをかける。
(2)日本国憲法
国の理念は憲法である。
理念とは、ある物事についての、こうあるべきだという根本の考えのこと。
理とはことわり。理屈や理性。感情とは対極にあるもの。
念とは、心で思うこと。だから、理念とは、「理性で筋道を考えた真理」だろうか。つまり、憲法とは国の頭であり、行動規範。
日本ってどんな国ですかと尋ねられたら、日本国憲法の三大原則を言えばよい。
〈日本国憲法の三大原則〉
国民主権
基本的人権の尊重
平和主義
①国民主権って何だろう?
厳密な定義は学者さんに任せるとして、主権は政治上の最終的な決定権と理解すればよい。だから、日本の国の政治上の最終的な決定権は国民にあるということ😊
②基本的人権の尊重
人が生まれながら持っている権利。皆、平等に持っている。明治時代は「天賦人権」と言ったの。天賦とは、天が平等に与えたという意味。では、天とは何か。それは、自然であり造物主である。
アメリカ独立宣言には「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」とある。
そう☝️😄
造物主という絶対的存在のもとでは、人間一人一人の差なんて、誤差のようなもの😱
私の身長は165㎝、あなたの身長は185㎝、私から見たらあなたは背が高い。
しかし、五階建てのビル🏢から二人を見たら、大差はない。
僕たちと五階建のビル。富士山🗻から見たら、そんな大差ないよ。
いやいや、宇宙💫から見たら、地球🌍にあるものの高さの差なんてほとんどない😱
という絶対的なもののもとでは、差なんてないの。みんな平等なのよ😄
という形而上でものを考え、人間が理性でやっとたどりついなのが、人権なのかな🤔。
そして理性は左寄りの思考だと私は思う。脳で言えば左脳ね。私がいう左寄りのと左翼は違うから注意してね😅
③平和主義
日本は戦争に負けた。負けてどうなったか。国の形を変えた?それとも変えさせられた。
そう☝️😣。
戦争に負けなければ、大日本帝国憲法は変わらなかっただろう。だって不磨の大典なんだもの。だから、負けて変えさせられたと考えるのは妥当かな?🤔
でも、当時の人々は、日本国憲法を知って喜んだとも😔。そう考えれば、日本人は望んでもいたとも言える🙄。
でも、戦争の放棄は、戦勝国が日本という国を去勢😱したとも解釈できる。だって、攻めこまれても武器もなく戦争ができないのよ。日本人という種が断たれる可能性もあるよね😱❗️
その後、日本は独立した🗾🇯🇵。
独立とは独りで社会で生活すること。自分のことは自分で守らなくてはならない。ということは、独立している国には、当然、自衛する力がなくてはならない。独立国には当然ある権利の1つが自衛権。自衛権を行使するための組織が自衛隊となる。自衛のためとはいえ、それは戦う力だ。憲法の戦力の不保持に矛盾する。
戦争は「憲法への攻撃」であるとは加藤先生の見解だ。
私の近現代史の授業のネタ本😅。とっても面白い本だった。戦争の目的って、その国の憲法を変えて国の形を変えてしまうことなんだって。
あくまでも私の解釈。
戦争の目的がその国の憲法を変えることとしたら、今、日本という国に戦争を仕掛けている方やその方が所属している組織は・・・😱。って恐ろしい話になるので、ここはカット。
(としたけれど、再投稿ではもう少し踏み込もう。それは改憲勢力よ😣。改憲も、この憲法の理念をさらに踏み込んだものにしようというのなら、戦争を仕掛けるとは言わないが😔。)
まぁ、憲法への攻撃は戦争の目的の1つと考えるか🤔
(3)立憲主義
人が集まって国となる。だから、個人と国の力関係は、当然国の方が強くなる。国の権力を制限し、個人を守るのが憲法であり立憲主義なの。
そう☝️😄。
憲法って、権力者のためにあるのではなく、あくまでも国民のためにあるものと私は解釈する。
憲法って、権力者がセンドウして、変えるものじゃないのよ。カタカナで書いたところがポイントよ😎。どんな漢字が入るかしら😁
(4)民主主義
個人とは多様なの。個人を尊重するのと多様性を尊重するのはほぼ同じ。
多数決が民主主義ではない。民主主義とは、国の支配者が国の構成員である制度のことなの。多数決は、決定の手段の1つであるに過ぎない。「多数決で決めたのだから従え」という考えは、短絡的かなぁ🤔。よく話し合った上で、多数決で決まっても、少数意見を尊重するのが民主主義。
そして、民主主義は面倒臭くて当然なもの。この、面倒臭さを面倒に思ったら、黄色の信号が点滅していると私は考える🤔。今、まさに日本は黄色の信号が点滅しているのかもしれないね😔。
また、多数決がいつでも正しい結果を生むとは限らないのが歴史の事実。アヘン戦争は、イギリスの国会が多数決で始めた戦争。ナチスドイツも民主主義の手続きを踏んで政権を取った。
「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」
→多様性の否定
「それで何人死んだんだ」
→人命軽視
「裁判官なんて俺たちの言いなり」
「『行政府の長』が立法府の長」と何度も発言
奥さんは「国母」のように振る舞う
→権力を持つことによるおごり
権力は魔物。権力は人を変える。だから、権力を集中させない。バランスが必要。
こういった発言や考えを持たせるくらい権力を集中させ、バランスが欠いた議席数にした、国民に責があると私は考えるの😅。
頼りないから任せない。頼りなくても任せて育てる。後者の考えが浸透して、初めて真の民主主義が育つ。これは私の信念。
え❗️❓その根拠😅
色々と示したいけど、やめておく。根拠がなくても、信じて念じているの😎。信じるのは客観的な根拠がいらない。宗教も信念と似ている。と、暴論だよね😁
参議院が試金石かなぁ😊
(追記)
今年の2月17日に書いたブログ。私は左翼とか右翼という区分けってあまり好きじゃないの。私が左寄りの、右寄りってというときには、左寄りが理性、右よりは情緒となる。平等という概念は、絶対的な存在を形而上にとらえなければ、出てこない。情緒的ではないような気がするの。一方、公平という概念は、人間には差があることが前提で、情緒的なものだと考える。
「俺、税金を沢山払っているのに、高校生と同じ1票なんて不公平だよ」と言ったら、感情的でしょ。その感情を廃したのが平等だと思うの。