つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

なるべく冷静に検証する「コロナはさざ波」発言~昨日のブログの続きよ😁~

昨日のブログは、煽りすぎたかしら😅。

 

賛否が割れたようね。それで良いんだけれど。私の書き方が嫌だなぁと思った方がいるはずよ😌。なぜならそのように書いたから。

 

煽らずにあのブログ内容を書くこともできるのよ😅。

 

「さざ波」という表現は問題にしない。「さざ波」をどのように評価するかという点で意見が割れる。

 

①コロナ禍と言っても、日本は世界と比べてさざ波程度だから、②オリンピックを中止にすべきではない。

 

①は②の主張の理由である。

 

①はグラフやデータからしたら事実であるが、②の主張は事実ではないわ。評価を元にした自分の意見である。

 

私は、この意見に承諾はしないが承認はする。そういう意見があることは認める。

 

その後に「笑笑」としたところが、立場あるものとしての表現としては不適切である。または「屁のようなもの」というのも不適切である。

 

「笑笑」を「世界の人から笑われる」という高橋氏の釈明通りに受け取ろう。とすると、次の点に疑問が生じる。

 

a.世界の人とは具体的に誰を指しているのか。

 

b.世界の人から笑われるからオリンピックを中止にしない、つまり、開催するのか。

 

データをもとに主張して、私たちがリテラシーをもって彼のツイートを理解しないといけないとしたら、彼にはこの2つの疑問に答えてもらいたい。

 

a.世界の人とは具体的に誰を指しているのか。

→これは答えられるかしら?。答えられないだろう😌。答えてしまったら、世界の人と言っても一部の人になってしまう。

 

それにこの「世界の人に」とは「太宰の世間って奴は論法」なのよね😅。

 

「太宰の世間って奴は論法」とは、自分の主張があたかもみんなが言っているようにみせる技法よ。「世間」や「みんな」を「私」に言い変えられる。

 

「そんなことをすると、世間の人が許しませんよ。」

→「そんなことをすると、『私』が許しませんよ。」

 

「そうするのは、みんなが当然だと思うよ。」

→「そうするのは、『私』が当然だと思うよ。」

 

まぁ、ズルいのよ。「世界の人から」とか「世間から」と言って自分の考えを主張するのは😅。

 

b.世界の人から笑われるからオリンピックを中止にしない、つまり、開催するのか。

→他人基準よね😌。

「・・・されるから~しない」

とか

「・・・されるから~する」

というのは。

受動的判断よ。

 

「笑われても~する」

とか

「笑われても~しない」

であってもよいし、そうじゃなくちゃね~😅。

 

 

次に、日本のコロナ禍が世界と比べると「さざ波」程度であることの評価である。

 

よく心理学の本で

大きな樽にコップ一杯ほどの水が入っていて、「たったこれだけの水しか入っていない。」と思うか、「少しであってもまだ、これだけの水が入っている」と思うか、あなたはどちらに感じるかというものがあった。

 

「評価」や「感じ方」って、同じものを見ても人それぞれであることがある。

 

「さざ波程度だから、経済的損失を防ぐためにもオリンピックを開催するのは当然だ」という意見もあれば、「さざ波程度であっても、コロナ感染拡大のリスクがあるためオリンピックを中止するのは当然だ」という意見もある。

 

 

ここで、オリンピック中止論者がオリンピック開催論者を感情的に反論するから、開催論者も中止論者を感情的になるわけで😥。いや、どちらが先か後かはよく分からないが🤷‍♂️。

 

でも、「オリンピックに参加する一選手に、オリンピックを辞退しろ。」なんていう中止論者がでるから、何かよく分からない方向になる。

 

その流れでいくと、高橋氏が「笑笑」とか「屁のようなもの」と、中止論者を揶揄するような表現を使いたくなるのも、私は感情的には理解はできる。承諾はしないが。

 

コロナという病気が感染拡大して、死にいたることはあってはならない。

 

一方でオリンピックを中止にすれば、経済損失額は最大約4兆5,151億円という試算もあるそうだ。そして、その損失の被害を受けるのも日本政府、いや日本国民である。

 

とすると、経済と人命のどちらが大切かという議論にもなろう。

 

たしかに、オリンピックを開催を推進しているからといって、その人が人命を軽視しているとはならない。人命を最優先事項にしながら、オリンピックを開催するということも考えられる。

 

しかし、政治の要諦の1つはリスクマネジメントである。

 

リスクマネジメントによってリスクを0に近づける。しかし、0にはならない。

 

オリンピック中止論者をリスクはゼロでなければならないというリスクゼロ信者などと揶揄する人に言いたい。

 

人流が増えれば、コロナ感染拡大の恐れがある。

これは、オリンピック開催派も、中止派も頷くだろう🤔。

 

恐れがあるということは、その恐れに備えなくてはならない。

 

東京オリンピックによって感染が拡大し、パンデミックになり、東京変異種が発生した場合、どのような具体的な対策を考えているのか。その対策がなければ、経済的損失よりも、人命重視の判断がなされなければならない。

 

これをゼロリスク信者と揶揄する人は政治はリスクマネジメントが重要な仕事であることを知らぬ人だ。

 

リスクが0じゃなければやらないというのではない。

 

リスクが0じゃなければ、その対策が必要なのだ。

 

他国から攻められる可能性が0じゃないから、自衛隊があり、防衛のために年間5兆円ものお金を使っているのだ。それを損失とは言わない。安全はただではないのだ。

 

オリンピックを中止にすることによって5兆円の経済的損失を被るが、それは安全を買ったのだ。

 

高い買い物だった。本当はかけずに済んだお金だった。と考えるから、損失となる。

 

色々な考えの人がいるだろう。

オリンピック利権者、政治家、選手、選手の家族、ビジネスマン、コロナに罹患した人、コロナでなくなった人の遺族、コロナの不安に怯える人、経済優先信仰の人もいれば、安全優先信仰の人もいる。様々な立場の人がいる。そういう様々な考えの人の間にたって、公平で中立な判断を下せる人がいないし、そんな人は理想的な人だ。

 

そんな中で、私の考えは「オリンピック開催中止」である。だからといって、中止反対派を揶揄はしない。

 

前回のブログは、揶揄しているじゃないと思った人がかなりいると思う。😅。

 

揶揄されたから、揶揄したまでよ😁。そして、次のように卑下しておいたわ。

いえね、私のような何の立場のない人の発言の言葉尻を捉えてはいけないよ😅。だってバカなんだもの~🙃🙂🙃🙂🙃🙂。
 
そして、バカが多いのよ、国民は👋😁。だから、民主政治は衆愚政治に陥るのよ。

 

オリンピック中止支持者を「ミクロ的視座」とか「リベラル」とか「ゼロリスク信仰」とか「笑笑」とか「屁のようなもの」なんていう人たちは、揶揄されてどう感じるのかしらってね😎