つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

論理力・文章での表現力って先天的なものなのかもしれない🙄

そう言えば🤔

私は文章の書き方を教えてもらった記憶がない。小学生のときの国語の時間に「作文」という単元があったのかもしれないが。

 

確かに学校で「起承転結」とか「序論・本論・結論」ということを習ったことがある。しかし、それを学んだから文章が書けるようになったのかと言われれば、疑問である🙄。

 

論理力って、先天的なものなのかしらって考えることがしばしばある😔。

 

後天的なものだとしたら、その保護者や環境しら🤔。

 

実は、私は親から「勉強しろ」と言われたことがない。というか、記憶にない。

 

私が幼いときは、父親は家で勉強しているものだと思っていた。

 

日曜日、私の父は、机に向かって警察官の昇進試験の勉強をしていた。いや、だからって遊んでくれなかった訳ではない😌。いや、遊んでくれた方よ😅。休みの日は、自転車で遠くに連れていってくれたし、キャンプしたり海に行ったり旅行をしたりもした。

 

しかし、私が幼少期の父の後ろ姿は、書斎で勉強したり本を読んだりしているという記憶も結構ある。

 

だから、私は家で勉強するものだと思ってきたし、本もけっこう読んでいた。

 

主に、歴史とサスペンス系の本を読んでいた📖。

 

赤川次郎のようなライトなものから、松本清張のような大人が読む社会派サスペンスものまで読んでいた。ちなみに、私が初めて読んだ松本清張の本は、ハードカバーの「十万分の一の偶然」

十万分の一の偶然 (文春文庫)

そうそう。この表紙よ😄

 

これを小学生のときに読んだのよね。父の書斎の本棚から取り出して😎。

 

文章を書くのも好きだった。

 

小学校で班日記という交換日記があった。雨の日の様子を書いたら、先生からおほめのコメントがあった。

 

低学年のときだったかしら🤔。

 

「ボチャン」とか「ザーザー」とか、「ポツリポツリ」とか、擬態語をたくさん書いたのよ。そしたら赤のペンで「すばらしいひょうげんですね。」というようなこと書かれたの。そうしたら、そのあと友達が真似をしだしたのよ😅。

 

読むのも表現するのも、いやいや勉強したわけではない。今思えば、書きたいという気持ちから書いたのよね。

 

今書いているブログもそうよ😉✨書きたいという気持ちがあって書いているの😁。

 

ということは🤔。

この書きたいという欲求、理屈で物事を考えていく姿勢、これらは育めるものなのか🤔。育むとしたら、小学生では遅いのか🙄。

 

私はダンスで自分を表現しようとは思わない。音楽で表現しようとも思わない。絵画で自分を表現しようとも思わない。どれも下手だし。

 

でも、私とは違う何かを使って表現する方もいるわけで。

 

私は、文章で、自分なりの理屈で、自分の考えていることを表現するのが好きなのよ。

 

こう考えていくと、どんなすばらしい教材を使っても、その子の琴線に触れなければ、上達はしないのかもしれない。努力して、人並みの論理力を身に付けるのが関の山かもしれない。

 

だって、私の論理力だって人並みよ👋😅。文章で表現する欲求は、化け物並みだけれど😎。

 

音楽や絵画の才能と同じで、論理の才能も、成長後に身に付けるのはとても難しいものなのかもしれないなぁ🤔。