論理と勉強と
地元の大手塾が、小学部の指導で「論理力を養う」と言う指導を前面に出してきた。その内容を読むと、私が5年以上前から通信や保護者会で言い続けていることをそのままパクっている。HPにまで大々的に載せていた。その塾には3年ほど前に、うちの塾から転職した教室長がいるのよね。そこから漏れたのかしら🤔。
不確定なことだし、責めやしないわ👋😅。だって、そのフレーズは真理なんだもの。私に特許や著作権があるわけではないしね😁。
でもね~、浅はかだよなぁ😅。論理力って余程のことをしないとつきやしないよ。だって理屈っぽい私は、論理なんて学んだことないもの😎。
私が学んだ頃は、詰め込み教育だった。たしかに国文法は学んだけれど、それを読解やコミュニケーションでどのように生かすかなんて学んだことなんてなかったと思う🤔
私のこれまでのブログを読めば分かるように、私は理屈屋さんよね~😁。無闇に理屈をこねているわよ。3度の飯より好きではないが、1食は抜けるわね。考え事をすることが好き。
そうなのよ☝️😁。
論理的に考えることが好きではないと、論理的に考えるのって上達しないのよ😎。
だから、「論理とはこうだぞ」と、人の真似して、大々的にアピールするような塾がやる論理なんて、皮相的なものよ。まぁ、うちも似たりよったりだけれど😁。
私だって、いくら中学生に論理的に考えることを指導しても、定着する子は僅かよ。小学生の方が指導効果があるような気がする。
ちょっと前に、こんなことがあったのよ。時事記述作文ゼミの課題作文で、私はよく「具体的な体験を」とか「具体的な例を」という条件をつけているの。具体的に物事を考える重要性は伝えているわ。でも、小5の生徒から、「また、具体的でしょ」と言われちゃったの😅。イラッとするのを堪えて、
「また、具体的だったらどうだと言いたいのかい」
と大人げない返しをしてしまったのよ~🤣。
「自分の考えを相手に伝えるには、具体的なものを示した方が説得力が増すんだよ。また、物事を考えるときには、具体的に考えよう。例えば理科でも、自分が考えたこと(仮説)が正しいかどうかを、手順にしたがって具体的に実験してみせるだろう。」
と言ってしまった😌。こんなことを言わずに、実感させなくてはならないよなぁ。具体的に考えて、それを抽象化させて自分の主張とする面白さを。
小学生から、「また、具体的でしょ」の指摘を受けて、私の指導が生徒に具体的に実感させられるものではなかったと反省した😌。
論理的に考えるために、プログラミング、パズル、理科実験…。塾でやる、これらの論理をうたう授業は、擬きよ、擬き😎。
だって遊びだもの。
楽しませなければ、子どもは来なくなる。だから、たくさん楽しい刺激を組み込んでいる。
そう☝️😄
論理的に考えさせたければ、楽しませることは大切よ😊。遊びの要素は否定しない。私の時事記述作文ゼミは遊びの要素に欠けていたのかもしれないわ。
結果が楽しく、過程も楽しくするにはどうすれば良いのか?🤔
相手の考えを聞いて、自分の考えを述べる。新聞を読んで、自分の意見を言う。思索する。遊びのような楽しさはないかもしれない。しかし、それが楽しいと思えて、論理力がつくと思うのよ。
遊びの要素を取っ払い、楽しく考えさせるの。これは講師にかなりの力量がいる。「もしも~なら」と考えることが、論理の1つだと言える。でも、遊びの要素も大切だわね😅
子どもは能動的に考えているのかしら🤔。
うちのチューは自ら学ぶ姿勢を身につけた。今のところ、子育ては上手くいっているとパパは自画自賛している。
月曜日は学校が終わると、パパの勤めている塾にバスや電車を乗り継いで行っている。「塾に勉強をしに行くか」とチューに聞くと、ニコニコしながら「行きます」という。「塾に行くから偉い」と言うわけではない。彼は家でも勉強しているからなぁ😁。
喜んで学びに行くことが偉いのだ。
そして、私が塾で教えるわけではない。与えられたを自分でどこからどこまでやるか決めることが素晴らしいのである。
これは学習に対する能動的な姿勢だ。この能動的な姿勢は、天性のものではない。後天的に身に付くものである。なぜ、そのように断言できるのか。それは、人として生きているからだ。どういうことか?
この世に生まれて、寝て泣いてばかりだった新生児が、ハイハイをし出して、捕まり立ちをして、言葉を話すようになり、二足歩行をし出した。これが生まれてから1年の間で赤ちゃんが失敗しながら学びとるものである。
学びは本能である。
ハイハイから捕まり立ちをして二足歩行ができるまでに、何度も何度も赤ちゃんは失敗を繰り返している。
その失敗で立つのを自分の意思で諦める赤ちゃんがいるだろうか🤔。
先天的なもので、立つことができない方は話は別である。しかし、そういう方は、立つのをあきらめたのではなく、立つ能力を先天的に与えられなかったのである。そうでなければ、失敗を繰り返して立てるようになると考えられる。
とすると、失敗しても諦めないことが本能で、失敗して諦めるのは育っていく環境の中で学んだことと言えないだろうか🙄。
自分の子が、勉強を怠けたり、サボったり、勉強を毛嫌ったりするようになったら、それは、その子のこれまでの環境、その子の周りの大人の責任が大きいと私は考える。