つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

学習院大学国際社会学部の卒業生代表による謝辞の危険性を考える🙄

すごいブロガーさんのブログは読むべきだわ🤔。底辺ブロガーの私が言うのもなんだけど、記事への切り口が参考になる。日野瑛太郎 (id:dennou_kurage) さん、ブログを引用させていただくわね🙇。

 

私も、日野さんにほぼ同意よ。まぁ、私なりに彼女の論理性を検証してみるわ😁。

 

学習院大学生のホームページに載っている、学生の謝辞よ。ネットでもかなり話題なっていた。まずはこちらを読んでみてね👋😄

https://www.univ.gakushuin.ac.jp/iss/news/20200320-1.html
https://www.univ.gakushuin.ac.jp/iss/news/20200320-1.html

 

では、問題の謝辞を読み解いていくわね😉✨

 

卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。

→おぉ、尖った文だわね😅。この一文で、「自分の答辞は『ありきたりではない』」と言いたいのだと分かる。だって、「多くが~に過ぎない。」と、これは一般論としているのよね。

しかし、読み手はここで納得をしてはダメよ。だって「ありきたりである」と感じているのは書き手であって、読み手ではない。

ここの正確な読解は、彼女が「多くの総代の答辞がありきたりの言葉の羅列」と感じているだけで、それは事実ではない。単なる彼女の感想よ。そして、読み手は「ありきたりとは何だろう」と考えなくてはならない😄。

 

大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。

→これをありきたりと彼女は感じているのか?🤔。これは「ありきたり」ではなく、多くの人が通る道じゃないのかな。それを「ありきたり」と言うのなら、「ありきたり」で良いと私は考える。なぜ、その「ありきたりである」ことを批判されなくてはならないのか?

 

しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。

→彼女が「それは、本当にその人の言葉なのか」と疑問に持つことは良い。でも、人が成長していく中で、お世話になるものはどれも似ているのではないか?🙄

大学に入れば、不安や期待があり、四年間勉強し、大学や支えてくれた人々がいる。そして、そういった人々に感謝する。この何がおかしいのか?🙄。

彼女は優秀であるがゆえに、抽象化(一般化)に飛躍が入る。そして、その飛躍が正しいと思い込む思考回路である可能性が高い。

確かに、どの総代も同じような謝辞かもしれない。しかし、同じではない、似ているのである。

大学に入学するときは、みんな不安や期待に胸を膨らませる。しかし、その期待と不安は個々に異なるものでる。

大学に入学すれば多くの生徒は四年間勉強する。しかし、その勉強内容や過程は、個々に異なるものである。

大学に入れば支えてくれる人がいる。しかし、その支えてくれる人も支えられた人も個々に異なるものである。

 

そう☝️😄

文章は似ているけれど、その文の言葉の中に詰まっているものはそれぞれ異なるのよ。彼女は、その似た言葉の中に詰まっている異なるものに思いを馳せることができない人なのよ。ということは、彼女はAIかしら❓😅

 

皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。

→「同じ経験をして」、という理解がまずおかしい。「同じ」が言い過ぎ。例え言葉が同じであったとしとも、同じ経験をすることは100%あり得ない。

「同じように感じる」と考えるのは良いとして、「わざわざ言葉で表現する必要はない」と言い切る理由を知りたい。

「同じように感じるならば、言葉で表現する必要がない」と考えるのなら、「異なったことを感じるならば、言葉で表現する必要がある」とも言える。

なぜ、同じように感じたことを言葉で表現する必要はなく、異なったことを感じるならば、言葉で表現する必要がある」のかしら🤔。

 

それならば、席を譲られて「ありがとう」という必要がないと言うのね😱。だって「席を譲られる」同じ経験をして、同じように感謝の気持ちになる。でも貴女は、それは言葉にする必要はないと言うのだろう。

 

見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。

→文章には型があるのよね~😅。多くの総代の謝辞が見事な定型文と美辞麗句であり、思考停止であると言うのなら、彼女の謝辞も、私から言わせたら、見事な飛躍と典型的な反骨表現であり、批判ありきの思考停止と考える🤔

 

私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。

→あ~あ、言っちゃった😎

経済的に自立できない『女性』は、精神的にも自立できない。

→貴女が女性だから「女性」と書いたのだろうが、現代の潮流からするとアウトかなぁ😅。「女性」ではなく、「人」だろう。それに「精神的に自立できないから、経済的にと自立できない」とも言えるわけで😔。

 

そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。

→この結論、私からすると稚拙だわ🤣。

「そう」が指すものは、「経済的にも精神的にも自立できない女性を心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきたこと」だろう。

従ってこうなる。

「経済的にも精神的にも自立できない女性を心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきたことを考えると、大学生活で最も感謝するべきは自分である。」

 

これを主語+目的語+述語で要約すると、「(大学で)勉強してきたことを考えると、感謝すべきは自分である。」となる。

 

勉強してきたことを自分に感謝するの❓🤣自分に「ありがとう」とでも言うのね❓🤣貴女が大学で勉強することは有難い、存在しがたいことなのね。貴重なことなのね。

 

まぁ、これはありがとうの原義だが、勉強した自分に感謝って、私にはあり得ない。これって自己肯定感❓🤔。いや、曲がった自己肯定感だなぁ。大学に入って勉強するのは当たり前よ。

すべての年度での成績優秀者、学習院でもっとも名誉である賞の安倍能成記念基金奨学金、学生の提言の優秀賞、卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。

→学績と人間性が偏っているのね🤔周りに感謝せずに、自分の才能に感謝しているのね。彼女は努力したのだろう。

 

支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。

→日野さんもおっしゃっていたけれど、私もここにかなりの違和感、違和感ではなく、思考の危なさを読み取った😅。

日野さんの文を引用するわ👋😊

この2文を読む限り、この方は「権利」というものの性質について大きな勘違いをしているようだ。そもそも、権利は何かの対価として付与されるものではない。この謝辞では「素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった」と述べられているが、「おかしい」ことを「おかしい」と主張する権利は別に、素晴らしい学績を納めた人でなくても保障されてなければならないものだ。(脱社畜ブログより)

ちょっと確認。彼女は「おかしいことをおかしいと口にする権利がある」とは言っていない。日野さんの解釈が正解なら、彼女は「おかしいと口にする権利」と書かねばならない。彼女は、もっと恐ろしくて、「おかしいことを口にする権利がある」と言っている。日野さんの解釈もできるが、この謝辞を字面通り解釈すると、「私は『おかしいことを言う』権利がある」と取れる。あぁ、怖い😱。

 

支えてくれた人がいたんだよね。これは謝辞よ。であるなら、この支えてくれた人に焦点を当てて、謝辞を書けば良いんじゃないか。この支えてくれた人への感謝はないの❓。ないのよね。少なくとも、ここに掲載された貴女の謝辞には書かれていない。支えてくれた人よりも、自分の才能に感謝しているのよね😱。

 

貴女は、環境を当たり前と考える方なのかもしれない。

大学の施設はあって当たり前。その大学に入学したのだから、その施設を使って当たり前。そして、支える人の存在も当たり前。その施設と支えてくれた人を十分に利用し、努力して素晴らしい学業成績を納めたら、その努力した自分と自分の才能に感謝する。そして、多くの人が書く謝辞はありきたりな言葉の羅列と揶揄する。

こういう人をなんと呼ぶのか😌。

 

それは自己中と言うのよ。ご存じかしら😎

 

もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。それは眠った世界だ。新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。
 私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。

→いや~、ホントは、こんなのを読んで、コメントしちゃいけないんだ。ホントは、ただ絶句すれば良いだけよ😱。

 

何をもってありきたりと言えるのか❓。

もしかりに「皆さまへの感謝」がありきたりで不味いものならば(私はそう思わないが)、貴女が考える本当に自分を支えてくれた方々に感謝すれば良いのよ。

 

自分を支えてくれた方への感謝は、少なくともこの謝辞からは読み取れず、感謝すべきは才能ある自分自身だと宣う。

自分に反対するものを「残念だ」とか「無能だ」と呼ぶ。そして、才能ある自分はおかしいことをいう権利があるという。独善的だわね。

ドストエフスキーの罪と罰や悪霊に出てくる考え方と似ている。

 

(罪と罰)
「新しい世の成長のためならば、非凡な者は凡人の道徳に反しても良い。」

 

(学習院大学卒業生)

「優秀なものは『おかしいことをいう権利』がある」

 

いや~ん、怖い😱。こりゃぁ、独裁者の思考よ。少なくとも、「おかしいという権利」と直した方が良いのではないかなぁ。

 

それにね。言論の自由があると言っておきながら、ありきたりなことはわざわざ言葉にする必要はないと言論や表現の自由を否定しているのよ。この怖さは、「ありきたり」という曖昧な基準で、要不要を決めるということ。自分の考えには権利をかざし、相手は権利で否定する。

 

この謝辞を伝説と賛美するものは考えが足りぬ。ロックでも何でもない。学問の偏差値も、人間性の偏差値も偏っている思考だわ。

私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。

→ここの文を書いたのは、大学側に「あんたら、私の謝辞を載せなかったら、言論抑制よ」って脅迫するためよ。きっと。

 

ホント、こういう思考も、これを賛美するのも怖い。だって、人が権利を主張すると、才能もなくなんの努力もせずに主張するとおさえつけ、自分の権利は才能があるからと振りかざす。この謝辞こそ、民主主義も言論の自由も否定するものなのよ。言論の自由は相手の自由を、民主主義は相手の権利を認めるのが前提なの。その前提を否定する言論は否定し、抑制して良いというのが、民主主義なのよ。

謝辞で「民主主義」や「言論の自由」を持ち出すのがナンセンス。ナンセンスだから、私も「民主主義」や「言論の自由」を持ち出してナンセンス返しをしたのよね😎。

 

私は、この謝辞を掲載した、学習院大学の教育機関としての品性を疑う。

学習院大学は、こういった考えを野放しにする大学なのだろうか🤔

それに、これを掲載したことで、彼女も傷つく。彼女はまだ社会人ではないだろう。いや、社会人になったばかり。学績は優秀なのかもしれないが、人間形成は未熟だと私は考える。彼女は守ってやらねばならない立場だ。彼女は「自分は自立した大人だ」と言いそうだが。それを言うなら、少なくとも一人暮らしをしていて、その費用も大学の費用も自分で稼いでいるのよね。

 

あっ❗️😅。

優秀で、自分の才能で奨学金をもらっていたのね。周りの施設や支えた人への感謝なく、自分の才能に感謝していたのよね🤣。彼女は社会で笑い者にされるのよ。学習院大学の先生は、それも仕方がないと考えたのだろうか🤔。

 

大学のホームページに名前をつけて掲載されている。公表されたものを私は引用し言及した。私は、これまでの述べてきた通り、彼女の書いた謝辞の内容は、人間性でも民主主義上も問題があると考える。やはり、指摘してやれよ。先生方は😅。学習院大学は、今後、生徒に勧められないなぁ、私は😄。

 

周りへの感謝、他人が述べたことに対する承認等が彼女の課題である。大学に在学していた四年間でキチンと育まなかった上に、そのまま彼女の謝辞をホームページに載せた大学が、教育機関として問題があるように私は考える。

 

でも、このくらい尖った方が、世の中で稼げるのかなぁ。ホリエモンのように😅

 

彼女が結婚することになり、披露宴での父母への感謝の言葉を述べるならば、ぜひ以下のように述べてほしいなぁ😎。述べたら、私は貴女は信念があると認めよう😁

 

結婚式の披露宴での新婦による父母へ感謝の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎません。

 

父母の大きな愛に包まれ、父母への反抗が少しあり、結婚までの家族との生活、父母への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。しかし、それは本当に新婦の言葉でしょうか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現し父母に感謝する必要はありません。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な披露宴での演出です。

 

私は自分のために育ってきました。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できません。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために育ってきました。そう考えると人生で最も感謝するべきは新婦自身です。

 

もし、ありきたりな「父母への感謝」が述べられて喜ぶような父母であれば、彼らには子どもを育む愛などありません。人生で新婦が努力して生きてきたと言えるならば、新婦が謝辞を述べるべきは自分自身です。感謝を述べるべき父母も皆さまもいません。

 

あっ❗️😄

 

披露宴に列席していただいた方への感謝の挨拶にも使えそう😁。

私たちがここまでこられたのは、列席していただいた方々のお陰ではなく、私たち二人の努力の賜物です。

ってね🤣