つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

優先席に座って思ったこと🙄~感謝と心の歪みと~

さすがに疲れて、優先席に座ってしまった😅。普段ならトラブルの原因になるから、優先席には座らない。やくざやヤンキーが座っていても注意しない奴が、正義面して私には注意する人がいるのよね👋😅。

 

優先席はあくまでも優先席であって、席に座る必要がある人が来たら譲れば良いのよね🤔。というか、優先席でなくても、座る必要がある人に席を譲るのは当然じゃないかしら😌。

 

以前、こんな意見を聞いたことがある。体に障害を持った子どもの母親なのだが、「なぜ私たちは席を譲られて感謝しなければならないのか。」と怒っていた。

 

「体が不自由になりたくてなったわけではない。でも、いつも卑屈になって感謝しなければならない。障害があるのだから、譲られて当然であり、感謝する必要はない。」というものだった。

 

この意見を知ったとき、「あぁ、体に障害を持とうとも、心の歪みは持ちたくないなぁ」と私は思った。

 

この心の歪みって何だろうと考える🤔。現代の風潮として、「心の歪み」を「個性」と言い換えるようなっているけれど、個性であれば何でも許されるのであろうか。いや、何でもは許されないだろう。そういえば、このブログで言及した方も、私から見ると、心が歪んでいると思うのよ👋😔。

このブログで言及した方は、通った大学には感謝などない、感謝すべきは大学で勉強し優秀な学績を修めた優秀な自分であるとする。自分を批判する人も含めて、自分の周りにいる人への感謝の気持ちに欠けている。

 

このように言うと「なぜ周りの人に感謝しなくてはならないのか。それは既存の道徳におかされているのだろう」という反論するかもしれない。その反論に反論できるがあえてしない。絶句すれば良い。

 

さっきの母親の話に戻すと、感謝することを「卑屈」と捉えるところに、思考回路の歪みがある。

 

そういえば、この母親は「席を譲ってください」とお願いすることもおかしいと考える方だった。なぜ、お願いしなくちゃならないのか。好きで障害者になったんじゃないから、そんなお願いをしなくても譲ってもらって当たり前であると。

 

「好きで障害を持ったのではない」のと、「譲ってほしいとお願いすること」との間には、因果関係はない。

 

そこで、私の想像である。

先ほどの女学生も、この母親も、今までに、私が想像できないくらいの嫌なことがあり、それが積み重なって、心が歪んだろうなぁと思う。「心の歪み」と言うと、そう言った者が不遜なようだが、やはり歪んでいるとしか思えない。そう思うと、なんだか悲しくなってきた。

 

みんな幸せに生きるということは、不可能なんだろうなぁ🤔。

 

「幸せは人それぞれ」という考えは同意する。でも、この二人に共通していることは、私から見ると、どちらも殺伐としているのよね。

 

これまで何度も「私から見ると」と繰り返してきた。なぜなら、このお二人は、自分自身では幸せかもしれないから🙄。

 

でも、「周りに感謝しない」と肩肘を張るのも、「感謝は『卑屈』だ」と言い張るのも、どちらも心がすさんでいるなぁと私は感じるのよ🤔。優先席に座って、まとまりもないことを綴ってしまった😅

 

私は、私と縁があった人だけでも幸せになるように努力しなくてはならないなぁ。まずは家族だなぁ🙄。いや、自分かも😅