つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

人生を豊かにするために論理を学ぶ

最近、私が注目しているブロガーさんは、id:phi_mathさん。私がこの方を注目しているなんて、烏滸がましいことだわ😅。だってこの方は、某有名大学受験予備校のトップ講師で雑誌掲載・著書も多数あるそうよ😳。私なんて、弱小塾のしがない正社員講師。同じ業界でも、phi_mathさんと私では、月とすっぽん、いや、太陽と石ころかもしれないわ😅。

 

ブログのすごいところは、こんな雲上人のお話をただで読めちゃうところよね。iphi_mathさんお断りもなく、ブログを引用してごめんなさい🙇。おかしなところがあれば、ご指摘ください。ブログを取り下げます😄。

 

さて、こちらのブログが大変参考になりました👋😄。今年のセンター試験の解説よ。


最後のセンター試験では,新しいテストの萌芽がたくさん・・・ 例えば,数学IAの確率 - Mr.∅の数学と古美術

 

東進ハイスクールのこの問題の解説はこうだったわ👋😅

[1]これまでにはない出題形式である。それぞれの選択肢について、確率を丁寧に求めていけば難しくはないが、形式の変化に惑わされた受験生も多かったと思われる。

https://www.toshin.com/center/sp/chiri-a_analysis.html

これは、プロの分析ではない。素人でも書けるわ😎。

 

だって昨年の問題と今年の問題を比べれば、「これまでにない出題形式である」って誰にでも言えるでしょ。「確率を丁寧に求めていけば、難しくないが」って🤣。確率をどう丁寧に求めるの。丁寧って何❓🤔。丁寧に解ける人にはそりゃ難しくないでしょ。最後のフレーズも秀逸🤣。形式が変化すれば、そりゃ惑わされる受験生はいるだろう。これは分析ではなく、事実と感想を書いただけよ。「設問別分析」なんだから、感想ではなく分析を書かなくちゅ😑。でも、まぁ、無料でホームページに載せている解説だから、あえて分析を書かずに感想を書いたのかもしれないが。これを本当に分析と考えて載せているのなら、東進ハイスクールの受験指導って皮相的なものだと思われちゃうわよ。あえて分析を書いていないと解釈しておこう😎。

 

さて、phi_mathさんの解説はこちら👋😄。

これまでのセンター試験では,ほとんどが定量的な問題です.

計算で答えを求めるタイプ.

新しいテスト(大学入学共通テスト)では,定性的な問題がかなり増える見込みです.

情報や性質から分かることを言語化する感じです.

数値を求めるのではなく,YESかNOかだけ,判定するんです

なるほど🤔。

東進ハイスクールのホームページでは、「これまでにない出題形式」というざっくりとした分析だった。いや、分析ではなく、単なる事実である。これを「定量的な問題から定性的な問題になった」と書けば、これは分析である。「数や量を求める問題ではなくなった」、つまり、「数学の問題が言語化されて、yesとnoを判定する問題が出題されるようになった」。これはプロの視点である。

 

さて、このプロの視点である分析を知識として知った。知識を生かすのは知恵である😎。

 

数学は数字や数学的記号を用いた論理である。私は社内で、「数学も語学だ」と言っている。「数語学」という造語も作った。

この数学にも言語という記号を用いた論理も問われるようになった。つまり、国語よね🙄。とすると、入試においても、さらに国語力が問われるという結論に持っていけるわね~と私は考えたのよ😄。

 

(センター数ⅠA確率問題)

1枚のコインを投げる試行を5回繰り返すとき、少なくとも1回は表が出る確率をPとすると、P>0.95である。

(これは正しいか、それとも正しくないか。)

この問題を解くときに、「少なくとも1回は表が出る確率」を「全て裏となる確率以外の確率」と言い換える。

 

「毎日やる」の反対は、「全くやらない」ではないのよね。「毎日やるというわけではない」🤔。「隔日やる」なのよね。「全て~というわけではない」という部分否定って、けっこう好きだった😁。

 

話がそれた🙇。

論理力、そして国語力って「言い換える力」も重要なのよね。というか、論理力って、「対比」と「言い換え」と「要約」に尽きるかもしれない。

 

「~はどういうことですか」とか「~について説明しなさい」とか「~とはどのような様子ですか」など、国語の問題は、ほとんど言い換え問題であると言ってよい☝️😄。とすると、説明されるフレーズと説明するフレーズには対応関係があるはずなのよ。ここを理解すると、選択肢の問題も記述の問題も解けるようになるわ。

 

論説文なんて「言い換え文」よ。前にも書いたわね😉✨

私はAだと考える。

なぜならBだからだ。

確かにCということもあろう。

しかし、Dなのだ。

例えばEという事実がある。

さらには大学教授もFと言っている。

つまりGなのだ。

だから、Hだと言えるのだ。

A⬅️B↔️C↔️Dということは

A≒B≒Dとなる。

さらにはA≒B≒D≒E≒F≒G≒Hとなり、C以外は、Aの言い換えや根拠なのよね。だから論理って言い換えよ。色々と言い換えて、自分の主張を相手に伝えるの😄。

 

その論理は数学的アプローチと国語的アプローチがあるんじゃないかなぁ🤔。いや、数学を解くときも母国語で考えるんだから、やはり母国語で考える力が土台かも。

 

数字の「1」を認識するとき、頭の中で「イチ」と認識しないで数学の問題を解く人もいるのかしら🙄。1を視覚的な1としてしか認識せずに数学を解くのかしら🤔。いや、数学の天才はそうかもしれない。でも、凡人であるその他大勢の人たちは、「イチ」と日本語で認識しているであろう。英語圏の人なら「one(wan)」か🙄。

 

そうよ☝️🙄。

やはり数学でも国語でも理科でも社会でも英語でも母国語力を疎かにしてはいけないわ。

 

といったようなことを、保護者に言えるわね。特に小学生の保護者に😊。

 

こういうことをいうときに、入試の問題を使うのが、保護者の心に響くのよ。「入試問題を解くために論理を学ぶ」なんて、皮相的な考えなんだけれど、ニーズは「入試問題のために」なのよね😣。本当は「生きていくために論理を学ぶ」なんだけれど。

 

文学作品を味わうのも、音楽を鑑賞するのも、情緒豊かなのも全て「論理」なんだけれどなぁ🙄。

 

でも、人生を豊かにするために論理を学ぶでは、保護者の心に響かないのよ。目に見えた数値的な、定量的なものがないと納得しないのよね。まぁ、私はそれを生業にしているから仕方がないか😌。