つれづれに宿題を語る
チューは月1ペースでスペシャルオリンピックスの水泳教室に通っている。私もブールに入って2時間近く息子の指導をする😅。
発達に課題がある子には水泳指導が有効だと実感したの😊。
手を左右交互に回しながら、息継ぎをしてばた足も同時に行うことは協調運動なのよね。息子の様子を見て改めて理解した😄。
彼にとっては結構難しかったが、2時間近く練習して、結構、様になってきた😆。よくテレビ番組で、協調運動を扱ったトレーニングが紹介されるが、水泳が最も効果的だと思う。肺活量も良くなるし、全身運動だもの。
それにね。息子の様子を見て、あぁ、これが学習なんだと実感した😄。
なかなか上手くできなくて、もがいている。コーチと私はできたことを承認するだけ。腰に浮き袋を巻いて、ぎこちないけれど、何とか出来るようになってきた👏😄。出来なくても決して笑わない。出来たことを承認する。すると、何も言われずに、私の補助なしで自分では何度何度も泳ぐようになった。ぎこちなく、端から見たら溺れているような泳ぎであっても上達している。
復習ってこういうことなんだなぁと思った🤔。息子は自分で泳いでみたいと思って、今習ったことを試した、復習した。これって、大切なことではないかと。
こういう気持ちを塾に通う生徒にどのように持たせれば良いのかなぁとつくづくと感じた。塾の講師の力量が試されるところだが、私は家庭での保護者の接し方も重要だと考える🤔。
予習や復習、宿題って世間では「嫌なもの」に分類される。でも、本当にそうかなと、ふと疑問を持ったの🙄
宿題とは家でやる課題のことだ。「家でやる課題」そのものに「嫌なもの」という意味はない。では、なぜ「宿題は嫌なもの」に分類されるのだろうか。
それは、宿題を嫌なものにしているからよ😅この意味が分かるかなぁ🙄
宿題をやらせる際に、「宿題はやるべき」となってはいないか。教師の側からすると「宿題はやらせるべき」となってはいないか。
私は基本「宿題はやるべき」と考える。でも、やらせるときは、そこに気持ちよさがなくては人は動かない😔。
「もう宿題はやった?」
「何で宿題をやらないの?」
宿題をしていても
「何でできないの?」
「こんな問題簡単だものね」
「宿題はこれだけ?」
宿題が終わっても
「宿題をやるのは当然。他に自分でやるべきでしょ。」
さぁ、家でこんなことを言われて、子どもは宿題をやる気になるのかなぁ😅。
「宿題なんてやらなくて良いのよ。あなたの判断だから。」なんて、私には論外の考え。そういう宿題もあり得るが、それは親が判断するところ😔。
以前にブログしたが、数学の苦手な高校2年生の女子に数学の問題600問近く夏休みの課題に出した私立高校の数学の先生がいた。中学の数学もできない子に数ⅡBの課題よ。それに、先生が課題を出すのが遅れて、提出まで3週間。
えっ❗️❓😅
「全て計算問題じゃないの❓」だって😌
いえいえ、ほとんど文章題よ。それも☆3つの難問も入っている。私が彼女の父親なら、学校に行って
「うちの娘のできの悪いのを棚に上げて言うのは誠に恐縮ですが、この子にこの量の宿題を出した意図と、宿題のやり方、そして、この子が何時間でできるのか予測したでしょうから、その予測時間を教えていただきたい。」
だって答えを理解しながら書き写しても30分以上かかる問題ばかりなの😱。1問に扱う平均時間を物凄く短く見積もって、15分と考えても150時間。それを1日5時間続けても約1ヶ月かかるのよ❗️😱。この私立高校、今後、生徒に勧められないなぁって思ったよ。
こんな宿題だったら、先生を理詰めで説き伏せてやる。違う課題を出せと。それでも言うことを聞かないのなら
「私の目の前で10問、提出する体裁で解いてくれませんか。時間を測りますので。」
と言いそう😎。
話がそれた🙇