人は勝手に思うもの190125(ブログセレクション)
「他人(ひと)は勝手に思うもの
自分自身がどう思うかが大切なのよ。」
もう、あれから20年かぁ🤔。昔、言われた言葉だ。とても印象的な言葉だった。でも、今の私なら、これに一言を加える。「人に迷惑をかけていなければ。」
(1)罪悪感
👦「○○、ずる~い。先生に頼んで、マラソンの練習を休んだんだろう😡。」
👧「あのとき、本当に頭痛がしていたのよ😖。」
👦「でも、今、と~ても元気じゃん😒。」
👧「そのときは頭がガンガンしたの😧。」
👦「絶対に嘘だよ。○○ちゃんは先生に気に入られているし。先生はあなたに甘いのよ😤。」
幼少のときに、ありそうな場面である。ここでこの女子はどんなことを考えるか。この男子に対して「ふざけるな💢」と一蹴できれば大したものだが、こういう男子に同調する金魚のフンがいる。だから、なかなか強く出られないケースが多いと思う🤔。
□「本当に頭が痛かったのに疑われてしまった。」
→「休むと周りから責められることになるんだ。」
→「休むのは悪である。」
となる可能性がある。
または
「先生に了承してもらったのに、休んだら、周りから責められてしまった。」
→「正当なことなのに、周りに自分が得をしたと思われると、罪悪感を持つ。」
となる可能性もある。
これも心の傷なのよ😔。
(2)思考法
でもね。
次のように考えてみよう☝️😄。
「頭が痛くて先生に頼んでマラソンを休んだことに罪悪感を持つ」のであれば、「頭が痛くて先生に頼んでマラソンを休んだ人がいたら、あなたは、その人を責める」のか❓🤔。
そう☝️😊。
あなたは、その人を責めないだろう。あなたはその行為を罪と考えていない。ということは「罪悪」ではないのだから、「罪悪感」なんて持つ必要はないということなんだ😉✨。
これも、私がよく面談で使うロジック。私は「反射」とか「代入法」と名付けている👨🏫。「自分の思い込みと同じ理屈を他に当てはめても、同じ結果になるのか」を問う。
(3)人は勝手に思うもの
そうなのよ☝️😊。
日本人が持つ罪悪感って、ほとんどが相対的なもの。周りがどう思うかが判断基準になっている。
「このようなことをするとズルいと思われないか。」
「ああすると、自分だけが得をしたと思われないか。」
人は勝手に思うもの。自分が正しいと考えて行動したことであれば、周りがどう思おうと関係ないぐらいの気持ちが大切よ😄。
よくね。「あんな服を着て恥ずかしくないのかしら」とか、「(その服を着たいのに)私にはこんな格好は似合わない」とか、「私には不釣り合いだ」と思って躊躇することがないかしら🙄。その躊躇の原因は、周りの目。
一方で、「そんなこと世間が許さない。」「そうするのは、みんなが当然だと思うよ。」というフレーズが出たら、「世間」や「みんな」を「私」に入れ換える。これはダザイイズム😎
社会通念に合わせることも必要。
先日、バスに乗ったら、立っている人が多いのに、優先席に座っている高校生がいたの😒💢。杖をついた老人が乗ってきても意に介さず😡。反対の列に座っていた私がその老人に席を譲ったの。車内の前方に行き、その高校生の制服を見たら、案の定、○高校だったのよ😧。○には漢字一字が入る😑。私は「やっぱり」と心の中で呟いた。
この一事をもって、全てを語ってはいけないことは分かっているが、人はそういう風に見るものでもあるのよ。
私はこの高校生に注意したかって❓😅。注意はしないよ。ほら、何されるか分からないじゃない。その年齢になって、社会通念上非常識なことをする人に常識は通じない。私はこれを「釈迦に説法」ではなく、「🐴🦌に説法」と言っているの😎。いや、自分の子どもや塾で預かっている生徒であれば、注意するよ😊。
「人は勝手に思うもの」という思考は、こういう行為を正当化させるものではない。
自分のした行為に罪悪感を持ったら、それは本当の罪悪なのか、それとも罪悪感に過ぎないのか突き詰めて考えると、気がはれるかもしれないね😊
(追記)ブログセレクションでは、ブログを開始した頃のアクセス数が少なかったブログを中心に、再投稿しています。