つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

蒸し暑い日の出勤途中のつれづれに

今年も半分が過ぎ去ろうとしている。子どものときの1年よりも大人のときの1年の方が経つのが速い。厭世的に思うと、なんか一歩々々死に近づいているんだなぁって感じるの😅。

 

世の中に確実なものなんてないという。仏教に帰依するまでもなく、これは真理だ😔。私も実感するの。釈迦は「諸行無常」と名付け、人間は「生老病死」に苦しむという。そして、その苦しみに「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」が加わるという。

 

じゃあ、出家するか?🤔。

 

喜怒哀楽を味わえるのも人が人たる由縁であると考えるが、釈迦が生きていた当時の状況と現在の日本では比べることが出来ない🙄。

 

いやぁ、今日は暑い☀️😵💦。ホント蒸し暑い😱☀️。沖縄付近に台風が2つも発生しているという。

 

当時、この数十倍蒸し暑いインドでは、栄華を極めた邸宅が、ほんの数年で雑草繁る土地となり、元気に生きていた人間が蛆のわく死骸となって道端に倒れていたのだろう😱。老いたり、病になったりすると、厄介者にされたのかもしれない😖。

 

今の日本に似ているように思う。弱者の適法な年金デモを「気持ち悪い」「税金泥棒」と罵る銭ゲバ。反社会的勢力の力を借りて選挙妨害をして、報酬をケチって火炎ビンを投げられたとされる権力者。全ての疑惑に関して物的証拠がなく有耶無耶に。それで言うと、反社会的組織の忘年会に出た芸人を謹慎処分にした大阪の芸能事務所の方がまだまともな組織なのかしら🤔。

 

そんな不正が跋扈する日本だが、それ以上に生きにくい世界が当時のインドにあったのだろう🙄。

 

生きるのが苦だと。苦から逃れるために出家し、悟りを開くのだと。私は幸いにも、生きることが苦であるという状況でもない。これから、生きることが辛いという状況にはなり得る。いくら安心を得ようとしても、不安がつきまとう。人には「生老病死」があり、それに付随して「喜怒哀楽」がある。楽しみを味わいたければ、悲しみや怒りといったものがなくてはならない。今の私に限って言えば、怒りや哀しみも感受しようと思う。

しかし

息子や妻と死に別れたら。

病気になり収入がなくなったら。

思いもよらず加害者になったら。

 

そういう不安は全て未来に対する不安なんだよなぁ🤔。

例えば、今、苛めを受けているとする。今も苦痛だ。しかし、これが未来永劫続くと思うから悲観するのだろう。

 

そう。諸行無常なんだよ。

それは未来は不確実と言うこと。

 

未来に希望を持てないから、悲観する。

じゃぁ、どうすれば良いのか。今を充実させるしかない。

 

苛め。親族の介護。病気。

今、苦しくなったら、今、叫ぶ。「苦しいんです」って叫ぼう。役所(市役所・警察署)で「このまま行くと、老父を殺しそうなんです。どうにかしてくれませんか」って叫んでみよう。そうなったら、誠に申し訳ないが、そうやって他人に迷惑をかけようと思う。

 

ごめんね🙇。みなさん。

 

でも、私も、そうやって駆け込んできた方がいたら、手助けをするから。今も、塾という世界で、本来親が持つべき責任を、お金を払っているという理由で、私が被っているから。

 

えっ❗️😱

お金をもらうのって思わないで。

 

私も生きているんだから。だって、市の職員も警察官も税金からお給料をもらっているのよ。私は税金からお給料をもらえない。だから、みなさんからいただくの。

 

迷惑を掛け合って人は生きている。だから、どうしようもなくなる前に迷惑をかけて、どうにか今を幸せにするの。

 

私のモットーは

今日の幸せを噛み締めて

明日の幸せに繋げていこう

なの。

 

幸せは、能動的な努力で維持するもの。受動的では、幸せの状態にはならない。

 

もっと大きく捉えよう。

 

平和は、能動的な努力で維持するもの。受動的では、平和な状態にはならない。

 

これは右派左派どちらも同じ考え。違いは「能動的な努力」の内容だと、最近気がついた。幕末、明治維新を学んでいて気がついたよ😊。

日本の独立は、能動的な努力で維持するもの。その能動的な努力の内容が攘夷と開国では異なる。攘夷は「外国人を殺し、日本に入ってこなくする」こと。開国は「外国に学び、力をつける」ということ。目的は同じ。方法が異なるだけ。

いやぁ、蒸し暑い。雲も多い、青空。ほら、遅れている電車。さらに一本遅らせたら😆

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全然混んでいないのよ😉。

時間に余裕を持つことも、幸せの1つかもしれないわ😊

蒸し暑い通勤中に思ったことをつれづれなるままにブログしたよ😅