つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

「そもそも意味が分かりません」とは

分かりやすいことは、良いことかな🤔。長短両面あるのよ。長所は分かるわよね。短所って何か分かるかしら😊。

 

分かりやすさに慣れきると、我が儘になるのよ。だって、分かりやすさの基準って、自分の頭でしょ。ということは、自分の頭の出来を基準にして、分かりやすいことは善、分かりにくいことは悪と考える可能性が高い😱。新しいことを学ぶと「分かりにくい」のは当然なのよ。つまり、難しいのは当然なのよ。

 

昔、数学の授業が分かりにくい、学校の先生の方が分かるというクレームがあり、その講師の授業を見学した。

 

う~ん🤔。

 

分かりにくいというよりか、難しい問題にチャレンジさせていた。それも、塾では学校の予習をさせる。既知から未知へという手順を踏んでも、分かりにくいことはある。その子は、どうしても分かりにくいというので、集団から個別に受講を変更し、学校の予習型から復習型に指導法も変えたの。そしたら、学校の授業が分かりづらくなったのよ。でも、あの塾の集団の先生の授業は分かりにくいと言い張るの。もうこうなると、理屈ではなく、感情ね😅。こういうことはよくあるの。まぁ、学生講師で、分かった気にさせるテクニックがなく、生真面目な先生で、ちょっと不器用さんだったかな。でも、あの先生の授業を受けていたから、学校の授業が分かりやすかったのよ。

 

ホント、私たちの仕事は、分からせる授業なんだけど、分かりやすいことは罪でもあるんだなぁって思うことがあるのよ😌。分かりやすいことになれてしまうと、少し難しいことに遭遇したり、ちょっと自分と異なる意見が出たり、または、やりたくない仕事だったりすると、思考を停止させる。

 

まぁ、私の授業は罪作りだなぁって言ったら、この意味は分かるかしら😳

 

いや、思考を停止させるだけならまだ良いが、必殺フレーズを使うのよ😑。それは、「意味が分からない」とか「そもそもどういうことですか。」とか。

 

こういったフレーズを使って、自分を有利な立場に立とうという低能がいるのよ😎。また、このフレーズをよく使う人は自己チューが多いと思う。私が仕事を始めた頃より、このフレーズを使う人が多くなった気がする😑。平成の30年は、分かりやすいことが善で、分かりやすいことになれた、低能で自己チューな人が多くなったのかも😱。

 

😒「お前、意味を考えようとしたのか❗️❓」

 

😤「意味が分からないから教えてもらえるのは高校生までだぞ❗️❗️」

 

😥「意味を伝えても『意味が分からない』って言うだろ、お前。」

そう。仕事で何か命ぜられて、そのように意味を問う奴のほとんどが、「やりたくない」の言い換えなのよね😤。

 

何でも意味があるんだよ。たとえ踏襲形式主義であってもね。「○○という意味でこういう命令が出たと考えますが、私は××の方が良いと考えます。」ぐらい言えよ。

 

ホント「そもそも」言う奴は大嫌い😤。「そもそも」が出ると、「出た❗️❗️『そもそも星人👾』」と心の中で叫ぶの📢🤣。

 

嫌いな理由は、意味を知ろうという努力を放棄した言葉だと私が考えてしまうから😅。


 
会社の施策に対して

「理由が分かりません。」
「意味がわかりません。」
「そもそもなぜそんな事をやるのですか?」

という発言を嫌というほど聞いてきた。会社側が趣旨を説明してもだ。水戸黄門の印籠のように、その言葉を吐く。そして、意味を説明しても、納得しないことが多いの。いや、私の記憶では、納得した人はいなかった😱。会社の命令だからと不承不承受け入れるかサボタージュする。まぁ、会社側は理解させる努力は必要であることは前提だが😔。
 
いえね。会社の命令に唯々諾々と従えということではないの👋😁。「会社は~という意味でこのような企画を実施しようとしていると私は考えますが、私は反対の意見です。それは~だからです。」と言うことも必要だと思うのよ。
 
議論するときもそう。

「あなたが~と考えるのは・・・だと考えるが、私は・・・だと考える」

という思考が大切だと思う。
 
今年の3月にあったこと。

東日本大震災の慰霊で君が代が流れた。天皇を敬う君が代を流すことを批判したツイートに、君が代は国家だからなぁ(もう少し煽っていたが)と呟いたら、「国家を流す意味がそもそも分からない。」という返信ツイートが届いた。

 

常識を疑うという点においてはとても良い視点なのだが、私は、それに答える義務はない。「そもそも分からない。教えてくれますか。」と尋ねられたら、答えたであろう。まあ、それでもこの方が納得する答えはできなかっただろうが😅。

 

国学に「この世は苦しい。だから、素晴らしい天皇がいる日の本に生まれたことを喜ぼう」という思想があるらしい。この思想というか神道という宗教の観点からすれば、君が代を歌うことは慰霊になると私は考える。まあ、この思想に共感するか否かは別だし、私は君が代の「君」の解釈自体違うから😅。それを言ったら、お経を唱えるのおかしな話だ。慰霊って、生きているものの心の問題とも言えるから、亡くなった人は、慰霊をすること自体、嫌がるかもしれない。曲は流さなくても良いという考えだってある。国が主催の慰霊会で曲を流すとしたら、現在法律で規定されている国家となってしまうんじゃないかなぁというのがあくまでも私の考え。私の考えであり、私の主義主張とは異なるのよ。おかしな点はあると思う。日本はある意味宗教国家だしね。

 

この点に関して言及したブログはこちら👋😊


つれづれなるままに歴史を語る(第1部完結)190330② - つれづれなるままに

 前述したことも、こちらのブログを引用したよ😊


うまく説明できないことも、世の中には沢山あることも知っている。でも、ここまで説明する義務は私にはないし、教えてくださいとも言われていない赤の他人だ。

 

その後、彼は私のプロフィールを見て、別ツイートに絡んできた😱。粘着質な人だった。

 

まぁ、私も、3ヶ月も前のことをこのようにブログにしているのだから、人のことを言えないが😎。

 

説明しない私に「塾の講師が説明しないのは職務放棄である」と。それに対して、「同意。職場でしたら職務放棄だね😔」と良いねとともに返信したら、「あなたのことだ。あなたが塾で人を教えているなんて怖い」とツイートしてきた。
 

「意見」に発言者の背景や人格を攻撃した時点で、私にとってはアウト。通報、ブロック、アカウントに鍵をかけた😜。
 
でも、後で、ものすご~く後悔することになった。ツイートは冷静でも、感情的になっていたのであろう。後で彼のプロフィールを見ると・・・、書くのはよそう。
 
目の前にいる人には優しくなれる。しかし、目の前にいないネットを介した人には冷たく突き放す。私の心には👼と😈が宿っている。ツイッターの使い方を改めることにしたよ。私に、優しく注意してくれた人もいたしね😉✨

 

何が書きたかったのか分からなくなってきた🤷‍♂️。纏めるよ😊

 

分かりやすさには長短両面があると考える。

 

分かりやすさを善と思い、分かりやすさに慣れきった人が多くなった。

 

そういう人達が、自分がやりたくないことを「そもそもどういう意味か分からない。」と質問してくるのではないか。この質問を言い換えると「まぁ、俺に分かりやすく説明しろ、納得したらやってやる(納得しないけどね😛)。」となるのだろう。

 

私がただ単にそういう大人が嫌いだと言いたいだけのブログが、こんな長くなっちゃった🙇