つれづれなるままに

教育や家族に関することを中心に書いていきます。

父よ。

今週のお題「おとうさん」
父よ。
私は貴方に感謝の言葉を伝えたことがない。

父よ。
私は貴方に心を開いていなかった。

幼い頃、たくさん遊んでくれた。自転車で色々なところに連れていってくれた。夏には古里に連れていってくれたし、九十九里浜の海にも遊びに行った。

心に残る写真がある。
電車のボックス席に家族で座っている写真だ。母が笑う。姉が笑う。坊主頭の私が大笑いしている。その写真の中に父はいない。
そう。父が私たちを写しているのだ。写真の中の私たち3人は、父の眼に写った姿なのだ。

私は写真がたくさん残っている。一枚一枚の写真が、父の私への愛情だったのかもしれない。

私が幼い頃、父の私へのおふざけで嫌だったことがある。それは「ベロベロ作戦」と言うものだ。幼い私を羽交い締めにし、私の顔中を 舐め回すのだ。母に「お父さんにベロベロ作戦された」と訴えても、母は微笑んでいるだけだった。

子どもを持って分かったよ。あれは、父の愛情表現の一つであったと。

そんな、愛してくれた父なのに、私はどうしても心のどこかで、父を煙たく思っていた。

幼い頃は、怖い父だった。理不尽なところもあった。父が休みの日の朝は、緊張感があった。

嫌なことも沢山あったと思うけど、今、それが具体的に思い出せないんだ。

父の涙は、1度だけ見たことがある。会社にいる私に、母から電話があった。胆管がんで入院するとのこと。手術の日は立ち会った。手術後、病院の屋上に家族を集め、「カッ」と一言声をあげ、泣いた。が、すぐに平常心を取り戻し、父は田舎にいる父の兄に電話をかけた。父の兄も肺癌を患っていた。気丈に「自分は大丈夫だから、お兄さん、体を大事にな」と言っていた。

その後、四年間、自宅で倒れるその瞬間まで、私たち家族にも、嘆きを見せず、苦しさも見せなかった。

だから、父よ。
貴方がこの世を去って10年を越えるのに、実感がないんだ。だって自宅で倒れる当日の朝、普通に会話をしていたんだから。夜中の0時に帰宅して、二階でパソコンで資料を作っていると、大きな音がして、そのあと、母の私を呼ぶ声が・・・。

救急車を呼び、行きつけの病院に行き、レントゲンを見ながら医師は私と母に父の状態を説明した。その時、母は医師の含みのある言葉を理解できなかったのだが、私はわかった。今日が別れの日だと。

その日の1週間前
私は父を車で駅に送ることになった。まだ、ありありと覚えている。そのとき、私が運転していて、フロントガラスに広がる光景も覚えている。

助手席に座っている父が私に
「お母さんはお前がいるから大丈夫だな」と。

私はそのとき、あまり気に留めなかった。ガンが進行しているなんて、これっぽっちも思っていなかった。だから、かなり先の話だと思って、「まぁ、大丈夫なんじゃないかなぁ」と答えた。
それが父の遺言だった。

私と妻と息子と母の4人暮らし。

父よ。
貴方との約束を何とか果たしているよ。
父は母を愛していたんだ。
死後の心配は、私ではなく母だったんだ。
経済的な心配ではなく、母の精神的な面での心配をしていたんだ。

私は父に誉めの言葉をもらった記憶がない。誉められたことはあるのだろうが。覚えていないだけだろうか。

だから、父よ。
私が貴方のもとに言ったとき、「よく頑張ったね」と貴方に言ってもらいたい。
母のこと。課題のある息子のこと。そして、妻のこと。「よく、やったね」って言ってもらいたい。
そして、私は、貴方に感謝の言葉を伝えたい。

貴方が息を引き取る瞬間、私は貴方に「また会おう」って言ったんだよ。覚えていますか?